マツリさんについての小説(あげ直し)

「その人は、いつも小さかった」
                                   客野支配人
 

 私は、そこそこの高校を卒業して地元を離れ、そこそこの大学を卒業して地元に戻ってきた。「地元」というと田舎のようだが私の生まれは東京で、通った大学は九州である。
 「なんでわざわざ東京を離れたの?」とよく訊かれた。そのたびに「いやあ、うるさい東京を一度離れてみたかったんですよ…」と答えるものの、実際のところ特に深い理由は無かった。いくつか大学を受けたものの、合格したのがそこだけだったという話である。九州に特に思い入れはなく、偏差値がたまたま私にとって都合がよかっただけだ。ファッションに疎い私には、ファッション指定地区であるフォースはそれほど魅力的ではなかったのかもしれない。
 就職は地元のゲームセンターにした。叔父がやっている、それほど大きくはないところだ。これにも特に深い理由はない。叔父が「人が足りてなくて困っている」と誘ってくれたので行ったに過ぎない。給料はそこそこ。忙しさはそれなり。やや古めのゲームをいくつか取り扱っている点で珍しさはあるものの、基本的にはごく普通のゲームセンターだ。
 夕方から夜にかけてはお客がそこそこ入るが、昼はガラの悪いヤツが少し来る程度。なぜなら近くに警察署があるからであり、叔父は何か問題が起こるたびにそこに駆け込むからである。そんなところになんでわざわざお客も来るのだろうと思っていたが、むしろ、ルールの範囲で楽しく遊べるということで、PTAからの評判は(ゲームセンターにしては)いいらしい。いわゆる「いい子」がよく来る半面、ちょっとヤンチャな子どもの間では、「あそこは行ってはならない」ということで有名である。
 だから、どう見ても中学生くらいのなりをした女の子が月曜昼の11時というド平日の真昼間に来た時、おや、と思った。
 身長は平均的な中学生といった感じだが、見ている方が心配になるくらい華奢。服装は動きやすさを重視した軽装で、洒落っ気はあまりない。髪は短いようだがニット帽に隠れてこちらからはよく見えず、しかし少し視線を下にやるとあどけない笑顔。あの笑顔は、ゲームセンターにはどんなワクワクがあるのだろうという顔だ。ゲームセンター通いがルーティンワーク化しているのではなく、見るもの全てが珍しくて仕方がない、冒険家の顔だ。
 そう言えば、私にもあんな頃があった。中学生のころ、初めて叔父に連れられて入ったゲームセンターでのことである。
親が厳しくて、小学生の間は、たとえ叔父の店とは言え、ゲームセンターという名の施設に足を踏み入れることは許されておらず、許されたのは中学生になってからだった。中学校の入学式の帰り、渋る両親を説得し、叔父は私を自分の店に連れて行った。
 自動ドアを開けた瞬間に、今までの聞いたことがないほどの大きな音が聞こえた。そして、音がいくつも混ざり合い、混沌とした騒音を生みだしている。その有無の言わさぬ音量に圧倒され、思わず目を閉じた。数秒そのままでいて、おそるおそるゆっくり目を開ける。うちのテレビより大きな画面が視界に入ってきた。左右に目をやれば、ドラマでしか見たことのなかったボタンやレバー。世界のどこであっても、ゲームセンター以外の場所には置いていないようなものがたくさんあった。
 どこに行って何からすればいいのか分からず、呆気にとられている私に、叔父は言った。店内の音に負けないよう、少し大きな声で。
 「そうそう、俺はこの顔が好きなのよ!」
 だが、何度も通い、慣れてくるとそこはフロンティアではなくなった。いたずらで貼られたであろうシール。筐体の裏に積もった埃。手に入る景品の安っぽさ。目新しさが欠けたゲームセンターは、もはやただの虚ろなハリボテにしか見えなくなった。
 いつしか店内の騒音も、全て聞き分けられるようになっていて、混沌ではなくなった。
「暇だな、6時まで時間潰すのにゲーセン行く?」
 「んー、まあそれでいいか。」
 私は、ゲームセンターが数ある大衆娯楽施設の1つに過ぎないのだと知った。
 若い、いや、幼かった時の話である。
 はっと我に返る。昔を思い出している場合ではない。叔父はまだ気がついていないようだが、学校がやっている時間に中学生がうろついていれば、警察に突き出すのがいつものパターンだ。学校サボるやつに肩入れするつもりはないが、前から叔父の処置は厳しすぎると思っていたので、できるならばこっそり逃がしてやりたい。
 私は受付から立ち上がると、少女が遊んでいるレーシングゲームコーナーまで足を運ぶ。
 近くで見ると、改めて小さい。小学生…はさすがに違うだろうが、つい最近小学校を卒業しましたと言われたら納得できるくらいには小さい。…もしかして、そのパターンかもしれない。中学校で授業についていけず、非行に足を伸ばしている、不良のなりかけ。ならば、本格的になってしまう前に道を正してやらねばならないだろう。
しかし、彼女のプレイは初心者と思えないほど巧みだった。平均的な男子学生を基準に作られたカーシートは彼女にはかなり座りにくいだろうに、腰を浮かすなどして器用にハンドルを操っている。ショートパンツから覗く足は細いが、よく見るとしなやかな筋肉があることが分かる。中一にしてはよく慣れている。
 彼女が何者か掴みかねているまま、シートから1メートルの距離に近づくが、夢中になっている彼女は気がつかない。
仕方がないので、とりあえず、咳払いを1つしてから話しかける。
 「コラ、中学生が昼間からなに遊んでんだ?」
 「ゴール!ラップタイム新記録更新ー!」
 私が話しかけた瞬間に、彼女の車がゴールし、けたたましい電子音が流れ、重なった声がかき消された。
 ふうと一息つき、満足そうにシートから降りようとして…そこでようやく私に気がつく。にっこりと、人懐っこい笑みをこちらに向ける。
 「イエーイ、店員さん!今のプレイ見てくれてた?ちょー速かったっしょ!」
 心の底から嬉しそうな顔。少し垂れた目は大きく、口元からは八重歯が少し見え、大人になり切れていない――というかむしろ子どもっぽい、かわいらしい顔立ちをしている。だが、この子は自分の置かれている状況が分かっているのだろうか。下手したら補導、親や学校を呼ぶことになる。やはりどうも小学校を卒業したてのようだ。悪いことだとあまり思っていない。この店の噂も知らないのだろう。しかしそれは逆に言えば、更生の余地があるということだ。仕切り直しのつもりで、もう1度咳ばらいをする。
 「こほん、そんなことはどうでもいいんだよ、お嬢ちゃん。学校はどうした?サボりはこの店では警察にソッコーで突き出すことにしてるんだよ。それが嫌なら早く家に帰りなさい。」
 叔父が来ることを恐れ、少し早口で少女に伝える。なるべく声を荒立てず、しかしちゃんと恐怖を持ってもらうように。こう言えば、おそらくすぐに察するだろう。
 しかし――その後の彼女の行動は私の予想とは違っていた。
少女はまず目が点になり、次に大きくため息をつき、頬を膨らませてまた萎ませる。そして私の勧告には答えず、無言でポケットから財布を取り出す。
そして、免許証(’’’)を取り出し、私の目の前にぐいっと突きつける。
は?免許証?
「ア、タ、シ、は、に、じゅ、う、いっ、さ、い、のお!オトナですぅ!」
「はいぃ?」
叔父の存在も忘れ、思わず変な声が出た。慌てて目の前に出された免許証を手に取り、文字を追う。
「三森マツリ 運転免許証」の文字。
免許証ではお馴染みのぶすっとした不満げな顔写真は、しかし目の前にいる本人よりはまだおとなしい表情をしていた。
 目の前の彼女は眉間にぎゅっとしわを寄せている。そうとうご立腹のようだ。
 ただ…
 「嘘だっ!」
 「ハア?」
 「免許の偽造は犯罪だぞ!お前…警察に突き出してやる!」
 「だーかーらー!アタシは21歳なの!文字読めないの!?」
 「どう見ても中学生だわ!成人してるだって!?いくら免許証を巧く偽装したってなあ、見た目がこれで騙されるわけないだろう!」
 「失礼にもほどがあるわー!店長さん呼びなさいよてんちょー!」
 「ハーン、こっちは庇うつもりだったが、お前がそういうことならいいぜ、叔父さんにたっぷり怒られて泣きながら謝罪しろガキ!」
 
 「…お客様に大変失礼なことを言ってしまい、本当に申し訳ございませんでした。」
 叔父にたっぷり怒られて謝罪した(泣いてはいない)のは、私の方だった。
 少女――三森マツリは本当に成人だった。
 以前ゲームセンターも所属する商店街のイベントのバイトとして参加した三森マツリに、商店街の係としてバイトを採用した叔父は会っていたのだ。叔父も最初は年齢詐称を疑ったが、履歴書と一緒に戸籍謄本まで提出されて、信じざるを得なかったらしい(いつも同じことを疑われるそうだ)。そしてイベントの準備を一緒に行う過程で会話を重ねると、彼女から発せられたのは、確かに年を重ねた大人の言葉だった。彼女はバイトメンバーの中心になって、叔父たちを大いに助けたという。
 そしてイベントの打ち上げの飲み会で、2人は意気投合する。
 『えっ、マツリちゃん、ゲーム好きなの?うち、ゲーセンやってるからいつでもおいでよ!サービスするわ!』
 『本当ですかッ!行きます行きます絶対行きます!』
 それで今日、実際に来てみたということだった。
 「…それにも関わらず、中学生だって言われてさー、しかも免許証を偽造?アタシはそんなくだらないことしないっての!」
 「まことに申し訳なく…」
 「いやあほんと申し訳ない、マツリちゃん。この通りだ。」
 叔父と私は深々と頭を下げる。それを見て、マツリは大きくため息をつくと、不承不承と言う感じで話をする。
 「…もういいよ、アタシも慣れてるしね、マツリお姉さんはこれくらいでそんなに怒ったりしないからさ。二人とも頭上げてよ。」
 意外と素直だった。本当に、自分の感情をちゃんとコントロールできる大人であるようだ。顔を上げ、改めてマツリの顔を見る。改めて顔をちゃんと見ると、素直な気持ちが声に出た。
 「…本当に成人?」
 「うきゃー!」
 私はまた怒られた。

 マツリは、その後も週に一度くらいの頻度でうちにやって来た。いつも目は輝いており、大きなコントローラーを器用に操っていた。時間はバラバラ。最初の時のように平日真昼間に来たこともあるし、閉店に近い深夜にやって来たこともあった。中高生が多く訪れる夕方や休日には、ダンスゲームを主にやっていた。「圧倒的にうまい女の人がたまに現れるらしい」ということで、次第に学生がギャラリーをなすようになった。彼女自身もギャラリーの視線を楽しんでいるようだった。また、ゲームの合間に私とマツリはよく話すようになった。ゲームセンターの店員ということもあって、私はかなりゲームに詳しいと自負していたのだが、マツリの知識は私のそれを圧倒していた。ただ、レトロゲームにも通じている彼女はいったい何者だろうとより一層不思議に思った。職業を色々と考えてみたが、21歳で、時間にあまり拘束されにくい立場ということならば、大学生だろう。そういう結論に至った。
 「いや、フリーターだよ?」
 大学生だと思って話をするも、あまりにも会話がかみ合わなかったので確認してみると、まさかの返答が返ってきた。
 「…ということはまさかお前、親の金でゲームしてるのか?」
 うちはそれほど阿漕な商売はやっていないが、週に一度うちに来ており、話しぶりから他の店にも行っているらしいようであることを考えると、相当な出費になるはずである。親の金で贅沢三昧、というダメ人間の図が頭に浮かぶ。
 私の怪訝な顔つきを見て、マツリはあははと笑って手を振った。
 「まさか。全部自分のお金だよ。アタシこう見えてもけっこうバイト掛け持ちしてるからね。一人暮らしして、生活費も自分で全部払ってるよ。生活の中心にゲームがあるってだけで、フリーターといってもやってることは普通の務め人と同じじゃないかな…たぶん。」
 仕事も惜しんでゲームとは、なかなか筋の入ったゲーム狂いだ。
 趣味に生きる、というのは確かに魅力的な生き方だろうが、普通の人間はなかなかそこまで思い切れない。「家庭が…」「社会が…」私たちは言い訳を繰り返して「大人」になる。それが普通だ。
 しかし、そう考えると、21歳にもなって本気でゲームを楽しみ、「大人」になりきることができていないマツリが幼児体型なのは、ひょっとすると筋の通ったことなのかもしれない…
 「でも、ゲーム大好きなのでフリーターやってますーって言うと、大抵の人には「マツリちゃんは身体も心も子どもだよね」って笑われるんだよね、あれがほんっと腹立つ!マツリさんはお姉さんだっての!」
 みんな考えることは同じようだった。今度は私が苦笑し、彼女に尋ねる。
 「でも、その生活をずっと続けていく気なのか?」
 「うーん、…わかんないな。」
 マツリはぽつりとそう言うと、私との会話を切り上げ、ダンスゲームのコーナーへと向かっていった。時計を見ると、時刻は既に午後三時半。30分後には学校帰りの若者がマツリのゲームパフォーマンスを見に来る。ギャラリーのために、彼女は入念な準備を欠かさないのだった。

 
しかし、その後3,4回来た後、マツリはぱったりと来なくなってしまった。叔父に尋ねてみると、元々彼女の家はここより少し離れた場所であり、なかなかこちらまでは気軽には来れないだろうということ。来なくなっても仕方がない、むしろ自然だと言う。
 私にとっても、多少おしゃべりが弾む知り合いでしかない。まあそんなもんだろうと思って、またいつもの日々へと戻った。
 

 数か月後、店頭で泥だらけのマットをはたいていたら、後ろから名前を呼ばれた。おや、この声はと思って振り向くと、マツリだった。最後に見たのと同じ軽装をしていたが、帽子にアクセサリーが数個増えていた。
 「おお、久しぶりだな。」
 「どもども~久しぶりに休みが取れたから顔をのぞきに来たよ!」
 「休み?ということは、もしかして、フリーターを脱したのか?」
 「えへへ…実はそうなんだ。」
 照れくさそうに笑う彼女に対して、私は少しがっかりしてした。何か裏切られたような、そんな感じがした。彼女もやはり「大人」になってしまう人間だったのか。
 「とは言っても、そんなにきっちりしたハードな仕事じゃないんだけどね。」
 「…ああ、最近はフレックスタイム制とか色々あるらしいからな。のびのびと働けるのは良いことなんじゃないか。ゲームセンターはほぼ年中無休だぞ…そういや、何の仕事なんだ?IT系とかか?」
 「えーっと…セブンスシスターズって知ってるよね?」
 「セブンスシスターズ?久しぶりに聞いたな、その名前。俺は詳しくはないが、数年前に流行ったよな。懐かしい…それがどうかしたか?」
 「うまく言えないんだけど、セブンスシスターズみたいな仕事してるの。」
 「セブンスシスターズ…あっ、芸能人か!歌手、女優、ダンサー…まさか芸人?すごいな、サインくれよ。ウチに飾っとく。」
 「うーん、全部ハズレ。えっとね、アタシの職業はアイドルなの。」
 私は驚いた。確かに、セブンスシスターズは「アイドル」という集団だった。颯爽と現れ、高い個性と独創性で一世を風靡した。国民的な人気を誇り、芸能事情に疎い私でさえ代表曲くらいならばなんとなく口ずさめる。しかし、人気の絶頂期にセブンスシスターズは突如解散した。その後、二匹目のどじょうを狙った芸能事務所が彼女たちによく似た「アイドル」をたくさん売り出したものの、人々が熱狂したのは、セブンスシスターズであって、「アイドル」ではなかった。セブンスシスターズの熱狂が醒めるとともに「アイドル」の人気も下がり始め、今ではごく一部のマニア以外は「アイドル」というものを忘れ始めていた。約2年という短い期間で頂点を上り詰めたセブンスシスターズは、忘れられるのもまた早かった。「アイドル」は、今では「時代遅れ」の代名詞ともいえる。私も本物の「アイドル」を実際に見たのは初めてだ。
 「…なんでまた、「アイドル」に?ていうか、今でもやってるところあるんだな。」
 自分の考えをまだ整理できていないが、とりあえず質問を投げてみる。
 「そうそう、アタシもスカウトされて初めて、アイドルってまだあるんだなって知ったの。で、スカウトされて、特に深い理由はないけど、やってみると意外と楽しかったからやってる、みたいな感じかなあ。」
 全く要領を得ない答え。マツリの方もそれは自覚しているようで、どう説明したものかと少し考えこんでから、あっと閃く。
 「そうだ、アタシのステージが今度あるんだけどさ、来てみない?そしたらわかるんじゃないかな。チケットあげるよ。さばけなくて困ってるんだ。」
 「…なんで売れない「アイドル」のチケットを買わないといけないんだよ。」
 「いやいや、話聞いてた?あげるの、三森マツリ登壇ステージのチケット、本来なら500円のところをなんと無料でプレゼント!どう?」
 「やけに安いな…お前それで本当に食えてるの?」
 「あはは…実はほとんど儲からなくて、ぶっちゃけバイトの方が稼ぎがいいくらいなんだよね、困った困った。」
 私は少し迷った。それほど深い仲ではない客からの、何やらよく分からないチケット。まさか、これは手の込んだ新手の美人局じゃないか…?
 「…まさかな、美人局ならこんな幼児体型よこさないよな。わかった、1枚もらう。大した力にはならんだろうが、500円で買おう。」
 「なんかすっごく失礼なこと言わなかった、今!買ってくれるのは嬉しいけど!当日のステージで目にもの見せてやるんだからねっ!」
 マツリは憮然とした顔で私から受け取った500円を手に、すぐさまレーシングゲームに飛んで行った。
 「うひょー、この感触久しぶり!腕が鈍っていないことを祈るよっ!」
 こうして、ゲームセンター店員の俺から手に入れた500円を、マツリは1000円にして再びゲームセンターに還元したのだった。
 
 私は、マツリが「アイドル」になっていたことが嬉しかった。まだ彼女は「大人」になっていない。それが確認できたことに心躍っていた。

 3日後、公演の時間の15分前、私は会場にたどり着いた。「ナナスタ」と書かれた狭くて小さい会場には、既に人がそれなりに入っており、熱気があった。そういえばここ数年音楽ライブにも行っていなかったことを思い出す。最後に行ったのは大学生のとき。友人が誘ってくれた、男性シンガーのライブだった。正直私はそのシンガーのことをよく知らなかったのだが、会場の熱気に巻き込まれ、翌日軽く筋肉痛を覚えるほど盛り上がったことを覚えている。
 今回の会場はその時のものよりかなり小さい、というよりここまで小規模のライブに来たのは初めてだった。照明は移動用に最低限ついているだけなので暗く、遠くまではよく見えないが、客は200人くらいだろうか。500円×200人は…10万円。さすがにこれではロクな商売にならないだろう。
 私が何の得にもならない金勘定をしていると、突然、照明が全て消えた。いよいよ始まるらしい。未知への期待に、知らず鼓動が速くなる。
 「…さてさて皆々様、今日は第8回ナナスタ定期ライブにようこそお越しくださいましたッ!「定期」と言いつつ第7回からだーいぶ待たせてしまったことをお詫びいたします…が!それだけパワーアップしたパフォーマンスを見せられると思います!それではまずはトップバッターから参りましょう!つい最近デビューしたばかり!フレッシュではじけるパフォーマンスをお楽しみください!Le☆S☆Caで、「YELLOW」!」
 ユニットの名前が読み上げられるとともに、ゲームセンター以上に大きな音でかかるイントロ。それに負けない客の歓声。ステージの袖から現れたのは、3人のかわいらしい少女たちだった。
 「みんな、今日は来てくれてありがとう!」
 「待たせた分だけたっぷり魅せてあげるわ!」
 「最後まで楽しんでいってください!」
 イントロが終わる。3人が息を吸い込んだ――……
 周囲が熱狂する中、しかし私はどこか拍子抜けだった。確かに、少女たちは可愛らしかった。だが、「可愛い」以上のものを感じることはできなかった。歌は悪くないが、ショートカットの子がやや突っ走ってきたような気がするし、ダンスはなかなかレベルの高いものだったが、背の高い子は十分にはついていけていないようだった。熱意は痛いほど伝わってくるのだが、実力が追いついていないような気がした。盛り上がる観客の中にいて、私は1人だけ場違いなような気がした。
 

 悪くはないし、久しぶりに「アイドル」を見ると、面白いものだ。
 ただ、金を払ってまでもう一度来るかと言われると微妙かもしれない。
 その後も次々現れる、様々なタイプの少女たちをぼんやりと眺めながら私はそう考えていた。
 「さて!盛り上がってきたところで次のアイドル!身体は小さいけど、そのパフォーマンスは神ってる!三森マツリちゃんの登場です!」
 開始から1時間ほど経っただろうか。やっとマツリの名が呼ばれる。
 ぱたぱたと袖から現れたマツリを見て、思わず「おお」と声が漏れた。
 「やっほー!マツリお姉さんの登場だよ!今日はよろしくー!」
 いつもゲーセンで見かけていた軽装とは違い、これまで出てきたアイドルと同じような雰囲気をまとう、可愛らしい衣装だった。ただ、よく見ると衣装のあらゆるところにゲームコントローラーやボタンをあしらったものがたくさんついていて、彼女らしさもよく出ている衣装だ。なるほど、これが「アイドル」三森マツリか。
 「オッケー、じゃあ行くよ、カバーをやらせてもらいます!…「B.A.A.B.」。」
 おや、と思った。これまで他のユニットは、自分たちのオリジナル曲を歌っていた。しかし、マツリが歌っているのは、現在大ヒット中のユニット、「KARAKURI」の曲だった。ここに来てのカバーは意外だったが、しかし私の不安をよそに、マツリは「B.A.A.B.」を見事に自分風にアレンジしていた。
 もちろんオリジナルの双子パフォーマンスには及ぶべくもないが、マツリなりの解釈を踏まえたパフォーマンスになっており、面白いものだったと思う。1曲を1つのゲームステージに見立てて進行するというのを1つの中心に据えていた。さらに、ゲームのコントローラーには「A」のボタンと「B」のボタンがよくついているが、それを踏まえ、曲名にもなっている「A」や「B」がつく言葉が歌詞に出てくるたびに、その場でジャンプしたりポーズを決めたりする。その動きは往年の名作ゲームのパロディーになっていて、ゲーマーならではのこだわりがよく見えた。
 「B.A.A.B.」そのものも私は割と好きなので、このパフォーマンスに夢中になった。しかし、周りを見ると、相応に盛り上がってはいるものの、それまでのパフォーマンスよりはあまりノッていないようだった。おそらく、ゲームネタがややマニアックなため、ネタについてくることができない客が多いのだろう。「B.A.A.B.」の曲自体も独特なリズムなので、アップテンポの曲の次に来るとその急旋回に戸惑うのだろう。
 「ありがと!」
 最後にウィンクを飛ばし、マツリはステージから下がっていった。観客は最後まで「まずまず」の盛り上がりだった。

 その後もたくさんの「アイドル」が現れ、パフォーマンスをし、去っていく。2時間半が経ち、全員が登場して一曲歌ったところでライブは終了した。結局、最も私の心をつかんで離さなかったのはマツリのパフォーマンスだった。一方で、多くの客はそう思わなかったのだろうなとも思った。

終演後、既に日が暮れた道を一人で帰りながら、私はライブの内容を反芻していた。
 全体的に見るとわりと面白かったし、500円と考えるとむしろお買い得ともいえるパフォーマンスなのだが、それほど心震えるものではなかった。マツリには悪いが、手間を考えると、次の公演には行かない…いや、マツリのパフォーマンスは好みだった。マツリのステージが見られるなら行ってもいいかもしれない。楽曲をゲーム風のパフォーマンスとしてアレンジするというのは面白いと思う。
 考え事をしながらゆっくりと歩いていると、入ったことのないラーメン屋を見つけた。今日はもう外食でいいかと暖簾をくぐる。いい匂いが鼻を突き、空腹を覚えると同時に疲れも感じた。知らぬ間に体力を消耗していたらしい。
 「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ。」
 店員さんに促され、カウンターに座る。醤油ラーメンと餃子を注文し、ホロコンをいじる。
 「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ。」
 新たに2人の客が入ってきて、私の隣に座る。座るなり、1人が口を開いた。
 「やっぱさ、レスカは凄いって思うんだよ。」
 「分かるけど、個人的には今日のMVPはニコラかな。」
 偶然にも、隣に座った2人はどうやらナナスタライブに参加した客のようだった。怪しまれないようにホロコンは触りながら、せっかくなので会話に耳を傾ける。
 「レスカはあの初ステージからマジでうまくなった!」
 「あーくそいいな、俺それ見てないんだよ…」
 「まあ、俺もまさかハルちゃん見に行って、まさか代打のレスカにはまるとは思わなかったわ、キョーコちゃんマジかわいい。」
 「配信のヒールっぷりも最高だけど、やっぱり生で見ると顔ちっちゃいよな。」
 「最初はスリーセブンのおまけみたいに出てたのに、今や定期公演のトップバッター任せられてるんだぜ、最高かよ。」
 「最後のハジマリウタでセンターで立ってたの見て泣いちゃったよなあ。」
 「あーレスカまた会いてえ…」
 「はは、ニコラもよくなかった?」
 「そういや今日はコルシカの子ら来てないなーって思ったらまさか「テスト期間だから会長命令で一定の成績の人以外は参加不可にした」って言ってて笑ったわ。」
 「相変わらずムスビちゃんって住む世界違うよなあ…なんであの子アイドルやってんだろ。」
 2人の会話を聞いていると、ステージが立体的に見えてきて面白い。
 オープニングで登場したユニット「Le☆S☆Ca」はどうやらデビューしたてらしく(そもそも全員デビューしたてらしいが、その中でも特にデビューからまだ間もないらしい)、デビューから追っていたファンから見ると、短期間でめきめきと成長しているらしい。「Le☆S☆Ca」以外の子たちについても様々なエピソードが飛び出してくる。
 やって来た醤油ラーメンをすすりながら会話に聞き入っていると、2人はマツリにも言及した。
 「マツリさんは相変わらずゲームオタクだよな!」
 「いやあ、俺ゲームほとんどやんないからさ、ぶっちゃけよくわかんないんだよね。」
 「まあ俺も似たようなもんだよ。マツリさんはゲームだけじゃなくて色々やってみてもいいと思うんだけどな、あんだけちっちゃいんだからちょっと幼女路線とかもいけそう。あ、でも…」
 「マツリさんはお姉さんだから、だろ?」
 「そうそう、あの駄々っ子はウケるよな。」
 案の定、ゲームネタはウケが悪かったようだ。口ぶりから察するに、どうもこれまでのステージでもゲームネタを繰り返してもいるらしい。
 パフォーマンスそのものにはあまり触れられずに、2人は別の子の話題に移ったが、私はマツリについての二人の会話を考えていた。
 初めて会った時の見た目と中身のギャップ。
 生活をゲームの中心に据えるマニアっぷり。
 卓越したゲームプレイと、パフォーマンス。
 ステージの外のマツリとステージの上のマツリは、やっていることは少し違っていたけど、でも確実に同じ人で、ゲームが好きで、パフォーマンスが好きなのだということが伝わってきた。
 そこでふと気がつく。でも、なぜゲームが好きならゲームのプレイヤーとしてだけ楽しめばいいのに、わざわざゲームの外の世界である「アイドル」に手を出したのだろう。ゲームの世界なら、もっと彼女を評価してくれる人がいるはずだ。2人はマツリのパフォーマンスをあまり高く評価していなかったが、他の多くの客もそうだろう。しかし、彼らはゲームフリークではなく、「アイドル」のファンなのだから、ある意味当然だ。それくらい分かりきったことなのに、マツリは、なぜゲーム風のパフォーマンスを繰り返すのか?彼女は何を思ってアイドルになったのか…?
もしかして、不本意ながら「アイドル」をしているのではないか?
 少し考えてみたが、答えは出なかった。
 ラーメン屋を出て家にたどり着くと、すぐに眠気が襲ってきた。
 マツリの真意に思いを巡らす暇もなく、すぐに意識は飛んだ。

 「いやあ、昨日はありがとね!」
 ライブの次の日。夕方になって現れたマツリは、満足そうに笑っていた。
 「うん、面白かったぞ。ゲームネタもたくさんあったし。」
 「お、そこを分かってくれるとはさすがゲーセン店員ですな~。喜んでもらえたようでなにより。」
 「ああ、他の子とはまた違う雰囲気だったが、俺はむしろああいうのが好きだな。」
 「ナナスタっていろんな子がいておもしろいっしょ!私も毎日楽しいんだ。」
 にひひと笑う彼女の眼は、無理をしているようには見えなかった。だから私は彼女に訊こうと思ったことを胸の内にしまい、代わりの質問を投げかけた。
 「そう言えば、他の子はみんなオリジナルだったのに、お前だけなんでKARAKURIのカバーだったんだ?」
 「おう、それもなかなか鋭い指摘だね。実は私、まだ持ち歌が無いんだよ。」
 「そうなのか。へえ、それは意外だな。てっきり歌手みたいに、自分の曲とともにデビューするもんだと思ってた。」
 「まあそういうパターンが多いけどね。だからというわけでもないんだけど、どうしても出られるライブやイベントも限られちゃってさ。今回のも久しぶりの定期ライブだったんだ。」
 「ふーん、じゃあいつ曲もらえるの?」
 「期待してもらってるとこ悪いんだけど、実はまだ決まってないなんだよね。アタシもわかんない。」
 「なんだそれ、お前そんなんでいいのか?」
 「まあまだデビューしたばっかだし、とりあえずは他のお仕事頑張るつもり。」
 「そっか、がんばれよ。」
 「へへ、ありがと。」
 申し訳なさそうにそう言うと、彼女は帰っていった。どうも忙しい中わざわざ時間をぬってお礼を言いに来てくれたらしく、ライブにいまいち乗り切れず、「アイドル」が何かよくわからなかった私としては、なんとも言えない気まずさを感じたのだった。

 その後数か月は、マツリは月に一度来るか来ないかという感じだった。
 私はナナスタのホームページをたまに閲覧して、彼女の仕事を見ていた。その感想を、たまに来店するマツリに伝えるのがいつもの流れになっていた。
 「この前のお前が出てたイベントのゲーム、ドットのゲームって久しぶりに見たわ。」
 「そうそう、このご時世にドット?って思ったけど、やってみるとハマるんだよね、これが!あの衣装とか背景のプロジェクションマッピングも凝ったものでさ、愛感じるよね。」
 「口紅のポスター見たけど、あれすげーな。やっぱりメイクってすごいと思った。」
 「うんうん、マツリお姉さんの魅力が…ってあれ?私は褒められてるのか?」
 「制服って流石に厳しいかなって思ったけど、みんな意外と好評でさ!」
 「違和感がなさ過ぎたんだが、やっぱりお前ティーンエージャーだろ?」
 ライブにはあれ以降2回だけ行った。マツリが出た時だ。マツリのゲーム的なパフォーマンスは相変わらず私の好みだったが、マツリ以外の「アイドル」についても、ホロコンの配信や周囲の噂話などから少しずつ情報が入ってくるにしたがって、この子も色々頑張ってんだな、くらいは思うようになった。
 ただ、それはあくまでそれくらいのものだったし、現に私はマツリが出るとき以外の公演には足を運ばなかった。
 「お前、最近マツリちゃんの映像よく観てるな。好きなのか。」
どうやら私は周りから三森マツリのファンと思われるくらいのものにはなったようだと知ったのは、叔父がそう言ったからだった。
「好きというか、面白いよな。」

 ある日、ナナスタのサイトを見て驚いた。
 「新ユニット登場!「The QUEEN of PURPLE」!メンバーは越前ムラサキ、瀬戸ファーブ、堺屋ユメノ、三森マツリ デビューシングル「TRIGGER/Fire and Rose」発売予定!」
 とうとうマツリにも持ち歌ができるらしい。「QUEEN」の文字や英語名の楽曲、特に「TRIGGER」――「引き金」が引っかかった。どうもカッコイイ系のグループらしい。カッコイイ「アイドル」、というとセブンスシスターズみたいな感じだろうか。マツリのイメージとは少し違う――あいつがクールに決めるというのは想像できない――が、なんにせよ楽しみだ。ここ三か月ほどウチに来ていないが、それはこれが忙しかったからだろうと合点がいく。
 
 数日後に「TRIGGER/Fire and Rose」の視聴が始まった。聞いてみて意外だったのが、マツリの声が聞こえなかったことだった。おや、と思って楽曲情報を調べてみると、どうも「The QUEEN of PURPLE」はバンドユニットで、堺屋ユメノさんとマツリはそれぞれ楽器の演奏に専念するらしい。あいつドラムなんか叩けたのか。確かにリズムゲームの類は(も)全体的にうまかったが、ドラムやってたから音感があったということか。私はそう納得して、改めて楽曲を視聴した。
 私は音楽は素人だが、確かにボーカルの越前ムラサキさんの歌はうまかった。うまかっただけに、なぜこの子は歌手ではなく「アイドル」をやっているのだろうと思った。ベースの瀬戸ファーブさんが楽曲も作っているらしいが、なかなか尖っている――というよりそれまで聞いたナナスタの「アイドル」の曲とはかなり様子が違っていた。堺屋ユメノさんがどういう子かはよく分からないが、これだけギターを弾けるのだから、どちらかと言えばアーティスト志向なのだろう。
 私はガールズバンドにも疎いが、「アイドル」よりはまだ多少わかる。4人とも「アイドル」っぽくない、どちらかと言えばガールズバンド寄りの「The QUEEN of PURPLE」はわりと好きな部類の音楽だった。こういう曲を聞けて良かったし、知り合いがそこにいるというのがなんだか嬉しかった。
 初めてナナスタのライブに行ったとき、私は「マツリは何を思って「アイドル」になったのだろう」と不思議だった。しかし、彼女がドラムをやっていたということを考慮すると、もしかしたらバンドみたいなことがやりたかったのかもしれない。だけど他にメンバーがなかなか揃わなくて、ソロでゲームみたいなパフォーマンスをしていた、みたいなことかもしれない。
 繰り返し「The QUEEN of PURPLE」の楽曲を聞きながら、私はなんとなく答えを出せたような気がして、すっきりとした。そうか、そういうことだったのか。
だったらマツリのやりたかったという、そのパフォーマンスを見に行かないとな…。
 その日から、「The QUEEN of PURPLE」の公演が来るのを今か今かと待つようになった。デビューシングルも、配信日にすぐに購入した。こんなに1つの音楽グループに注目するのは久しぶりだった。ただ、マツリはその後、ずっとうちの店には現れなかった。忙しいのだろうと思うと同時に、寂しいとはっきり感じるようになった。

 「ハーイ、こんばんは。越前ムラサキだよ。喋るのは得意じゃないから、早速行こうか。――「TRIGGER」。」
 うおおおお。
 さほど大きくないが頑丈な会場が歓声で震える。ファンがあげるその声の集合のなかに私も混ざっていた。
 シングルリリースから数か月。やっとQOP(The QUEEN of PURPLEの略称)の初お披露目の公演ということで、久しぶりにナナスタを訪れ、久しぶりにマツリを見た私は、彼女の姿に見とれた。
 黒と紫を基調とした衣装は、クールかつセクシーだが、パフォーマンスは圧倒的にパワフルだった。身体がすっぽりと隠れてしまうほどのドラムセットに真っ向から挑み、豪快に演奏する。他の三人も個性的なパフォーマンスをしていたが、彼女達に負けず劣らず、だけど壊し合うのではなく共鳴する。
 もちろん四人とも技術的には完璧とは言えない。少しテンポが速いし、ミスもある(気のせいかもしれないが、マツリのミスがやや多かったと思う)。だが、それも会場の熱気が覆い隠す。ドラムに隠れてあまり身体は見えなかったが、腕はムチのようにしなり、眼光は鋭い。たまに帽子を押さえる仕草はチャーミングだ。4人を順番に見ていたつもりだったが、気がつくとマツリのみに視線を注いでいた。
雰囲気に、空気に、音に、そしてマツリに、没頭していた。自分が溶けていたような感覚だったと、今なら思う。その瞬間はこんな風に自分を俯瞰する余裕はなかったが。
マツリの表情が緩んだと思ったら、いつの間にか曲が終わっており、私の声は枯れていた。
 「ふー!どもども、The QUEEN of PURPLEでした!みんな、楽しんでくれた?」
 マツリは疲れ切った、でも笑みを浮かべて息を吐き、会場に呼びかける。私はそれに応えようとするも、声がかすれて出ない。
 「楽しんでくれてアタシも嬉しいよ!頑張って練習した甲斐があったってもんだ!」
 「マツリさんほんと最高に可愛かったよ~♡一生懸命イチから練習する姿も守ってあげたいって感じだったけど、今日のマツリさんにはむしろ守ってほしいまである!」
 「ほんとだね、よく初心者からここまでこれたと思うよ。」
 えっ、どういうことだ。ファーブさんの一言に、会場がざわつく。
 「ああ、言ってなかったっけ。こんなかでマツリだけ未経験者なんだ。けっこう練習したんだよ。」
 「いやー、けっこうどころの騒ぎじゃなかったぜ?マメがいくつ潰れたことやら。」
 えーっ!すげー!会場が騒然とする。私も驚きだった。それは、彼女が経験者に負けないパフォーマンスをしていたからというよりもむしろ、私の予想とは違っていたからだった。私は、マツリはバンドをやりたたくてアイドルになったが、できないので半ば仕方なくゲームパフォーマンスのようなものをやっていたのだと思っていた。しかしそうではなく、ドラムもQOPになって初めて触ったらしい。自分の予想が崩れ、再びあの疑問が浮かぶ。
 三森マツリは、どうしてアイドルになったのだ…?
 その日の公演が終わり、ラーメン屋で醤油ラーメンを食べても、家に帰っても、答えは出なかった。

 数日後、久しぶりに表れたマツリに、私は尋ねた。
 「なあ、マツリ。なんでお前はアイドルをやってるんだ?」
 「ん?前も言わなかったっけ。やってみたら意外と面白かったからだよ。」
 「そうじゃなくて、目標だよ、なんで食えないのにアイドルをやって、なんでウケないのにゲームを題材にパフォーマンスをやって、なんで初心者なのにドラム叩いてるんだよ。お前は、何がしたいんだよ。」
 マツリは、思わず語気が強くなった私に目を丸くしたが、すぐににやっと八重歯をのぞかせる。
「それはね…」
そこで目が覚めた。夢だった。QOPの公演以来、私はほぼ毎晩この夢を見る。あれからもう1週間経ったのに。自分がこの問いに囚われているのを感じる。それは不快ではないが、楽しいというものでもない。
QOPの初公演は終わったが、まだマツリはウチには来ていない。もう来ないかもしれない。ギャラリーだった子どもたちも、今日は来ているかなとマツリの姿を探すことが、ほとんど無くなった。
だけど、私はきっとマツリの公演にまた行くのだろう。彼女が私になにも語らないとしても。
「お前、すっかりマツリちゃんのファンだなあ。」
 叔父は笑う。
 「曲聴いてみたが、まだやっぱり女の子って感じだな。ジジイにはよくわからんよ。」
 
 見当外れのことを言っている叔父に対して、私は口を開いて、しかし何も言葉を発することなく閉じる。彼女についての「物語」は、私のなかでもまだ混沌としているからだ。だから、それを語るかわりに、ただこう言った。
「そうだな、ファンだよ。意外と面白いよ、アイドルってのは。」




あとがき
これはもともと、1年ほど前に本ブログにあげたマツリさんについての小説でした。今回も内容はその時のものとほとんど同じです。誤字脱字の修正にとどめました。1度消したものを再度あげる気になった理由は単純で、エゴサしてたら「あれ面白かった」と言ってくださった方を見つけたからです。私自身、拙さが残るどころか拙さしかないこの小説まがいを最後まで嫌いになり切れなかったので、あげ直すことにしました。以前書いた記事で言及した「小説」というのはこれです。つながりがあるのかないのか自分でもよく分かりませんが、あわせて読んでくださると嬉しいです。それでは。

メモリアルライブを終えて

皆様こんにちは。客野です。今私がこれをLINEにつらつらと書き連ねているのが2018年7月22日午前0時を過ぎたころ、東京から福岡へと戻るバスの中です。
まずは定型文的な挨拶から。
メモリアルライブお疲れ様でした。もうあえて詳細は語りません。これ以上なく最高とまでは言いませんが、とても良いライブだったと思います。行けて良かった。

さてここからは自分語りをしばらくさせていただくのですが、私は今回のライブで支配人業からしばらく遠ざかることを、既に以前のブログの末尾に記していました。理由はシンプルで、人生の岐路にいるからです。中途半端なことをしたくないからです。個人的な事情になるのでこれ以上は言いませんが、なんとなく察していただけると幸いです。
ただ、あのブログの記事を書いた時には「まだまだ続けたい」という気持ちもそこそこ持っていました。というのも、メモリアルライブで何かしらの告知が出るであろうことは明白で、私はそれがアニメ化だと思っていたからです。それは見逃したくないと思っていました。だから、メモリアルライブの翌日にコラボカフェの予約とかもしていました。なんだかんだ言って自分は弱いから、中途半端に支配人業をメモリアルライブ後も続けていくのだろうと自嘲気味に予想をしていました。
でも、そんな中途半端なやり方をしていたら、QOPに怒られてしまいました。新曲"Clash"は全く予想していない展開でしたが、何より驚いたのは、それがメモリアルライブ翌日の00:00、つまりわずか3時間後にリリースされるということでした。メモリアルライブの次のステップは、もうすぐそこから始まるーーそのことを私は直感的に理解しました。だったら、メモリアルライブの日の23:59まで支配人業をすることにして、そこでひとまず区切り、という形が1番適切なのではないかと、そのリリース情報が出た瞬間に思いつきました。

そしてライブが終わって家に帰り、感想ツイートを呟いてみたり漁ってみたりしているうちに、あっという間に時計は23:30を回っていました。ライブ中に感じていた火照りは少しづつ収まってはきたものの、23:59で区切りをつけるという思いは消えませんでした。
23:50頃から、推しの3人(ムスビ、レナ、マツリさん)にそれぞれメッセージを作り始めました。大急ぎで作ったので出来は悪いですが、その穴を埋めるのはまたいつか復帰してからだと思っています。
そしていよいよ00:00。最後のログインボーナスを受け取り、ホーム画面へと移動した私は、そこで驚くことになります。

ホームにはQOPジャケのマツリさんがいたのです。

私は、その時マツリさんをホーム画面に設定していませんでした。ホーム画面に設定していない子がホーム画面に登場するということ自体がレアなのに、それがマツリさんだったというのは、驚くべき偶然でした。笑うマツリさんは、引き止めてくれているようにも、見送ってくれているようにも見えました。たぶん私の心情を投影してそう見えたのだと思いました。その時初めて少し決意が揺らぎましたが、迷いを振り切り、アプリを閉じてアンインストールしました。アプリ連携はしていますが、しばらくはさよならです。感謝の言葉しかありません。

思えば、今回のライブはとても印象的でした。センターステージでQOPの中心としてドラムを叩くマツリさん。強い絆で結ばれたハルムス。支払いを忘れていてそのままになっていたフラスタ代をちゃんと払うこともできましたし、大好きな絵師様のフラスタ企画にも参加させていただきました。これまでやり残したこと、見たかったことをほとんどやり切った、少なくとも精算はできたという思いが、今の私にはあります。その意味でもとても幸運でした。

さて、以上のようなことをナナシスを休止する「表の理由」だとすると、私にはもう1つ、「裏の理由」があります。そんなに大した話ではないのですが、私は、ナナシスに触れてから、ずっと悩んでいたことがありました。それは、自分はこのコンテンツが本当に好きなのだろうかということでした。私がナナシスに触れたきっかけは、お正月にBSで再放送されていたアイマスの映画、「輝きの向こう側へ」でした。挿入歌「M@STERPIECE」に圧倒された私ではあったのですが、それと同時に、十分に感動しきれない自分がいるとにも気づいたのです。再放送を観ただけの私と、リアルタイムでアイマスを追い続けた人とでは、感じるものが絶対に違うはずだ。私がこの映画を観て10感動したとしても、その人達は100、いや1000感動するのだろう。私はそれが凄く悔しかったのです。「マイナーな頃からコンテンツを追い続けたら、最高の晴れ舞台でどれくらい感動できるのだろうか。」その思いが私をまだ見ぬマイナーコンテンツへと駆り立てました。
その時知人から教えてもらって出会ったのがナナシスです。当時既に1stライブを終えており、マイナーからは程遠いと今なら思わなくもないのですが、当時の私はまだまだ無知で、アイマスラブライブなどアニメ化している作品がメジャー、そうでない作品は全部マイナーくらいに思っていました。要するに、私はナナシスを自然と好きになったのではなく、ある意味目的をもって好きに「していった」のです。
マツリさんを好きになったきっかけも同じようなものでした。当時は777シスターズとLe☆S☆Caしかユニットはなく、マツリさんはいわゆる未デビュー組でした。「せっかくマイナーなコンテンツを推すのだから、その中でもあまり人気の無い子を推そう」という、今マツリさんにこんなことを言うと突き飛ばされそうな理由で私はマツリさん推しになったのでした。
もちろん、SEVENTH HAVENが大好きだったり、「自然と」好きになった部分も無くはないのですが、「ナナシスに触れたきっかけ」「推しキャラを決めたきっかけ」という、最も根本的な部分について、私は「戦略的に」振舞ったと言わざるを得ないのです。この行為は、この後ろめたさは、今もなお私の内にあります。
私はナナシスを、マツリさんをちゃんと好きでいられているのか…?

この葛藤をさらに複雑にしたのが、私はライブで泣いたことが全くないということです。うるっときたこともありません。最初のうちは「私泣けないんだよねw」とネタにしていたくらいなのですが、マツリさんのデビュー舞台を見ても泣けなかった時に、あれ?と思いました。先に断っておくと、私は「泣けない」人間ではありません。涙脆いという程ではないですが、感極まれば人並に涙が出ます。
「自分が泣けないのは、ナナシスが好きではないからではないか」と次第に思うようになりました。それを打ち消すために、メモリアルライブまで色んな文章を書き連ねました。マツリさんが好き、ハルムスが好き、レナが好き…彼女たちについて考えなかった日は1日もありません。
でも、結果として私はメモリアルライブでも一滴すら涙を流しませんでした。何度も何度も聴いた「またあした」をだーみなが初めて披露して、周囲からすすり泣く声が聞こえてくるのに自分は目がうるみさえしないと分かった時には、軽く絶望感さえ覚えました。なんで、これ以上無く泣けるところなのに、どうして私の涙腺は反応しないんだ…こういう風に思ってしまう自分も嫌でした。こういう風に思うことそれ自体が、私が泣けない理由を端的に表しているように思ったからです。

以上のようなことは、私がナナシスと距離を置くことを決めた直接の原因ではありませんが、ずっと接していることで苦しみ続けたことではあります。「感動したい」という意思が如何に倒錯した欲求であるかを理解したのが遅すぎたのだと思います。

正直、今この文章を書きながらも、自分がこれまで語ってきた「好き」は、全て偽物なんじゃないかという不安があります。「そんなことないよ、客野さんはすごく真剣に考えてるだけだよ」と言ってくださる方がいて、それは非常にありがたいことなのですが、私の涙が流れず、そのことを自分が気にしているというこの浅ましい考えがある限り、私は全て打算でナナシスを好きになったのではないかと、言葉を重ねれば重ねるほど心は遠くなってしまったのではないかと、思わざるを得ないのです。でも今更他の生き方なんて思いつきません。私がナナシスに接し続ける限り、不安はいつまでも私の後ろをついてまわるでしょう。

私は、2nd以降、2.5の夜公演を除き、全てのライブ・公演に参加しました。今回支配人業を休止することになったため、4th不参加は確実です。それは、そもそも存在を知らなかった1stと、チケットが取れなかった2.5夜公演とは違い、私が自覚的に不参加を決めた最初のライブになります。付け加えると、QOP、そしてマツリさんの上がるステージを見ないことになる初めての機会になります。この状況が生まれたのはあくまで偶然(繰り返しますが、後ろめたい云々はあくまで裏の理由です。今の思いを聞かれると4thも普通に行きたいです)ですが、これは同時に格好のリトマス試験紙でもあります。もしこの不参加が単に勿体ないという思いしか私にもたらさないのだとしたら、私の想いはその程度でしかなかったことがはっきりと分かります。でももし、ちゃんと「悲しい」と、「次は絶対に会いに行きたい」と思ったならば、少しは自分を見直すきっかけになるかもしれません。マツリさんに心から大好きだよと伝えられるかもしれません。でもまずは、表テーマ、本題をどうにかしないといけません。それができなければ、ナナシスを否定する云々の前に自分を否定することになってしまいます。なんとか頑張って夢を叶えて、その後にマツリさんに、みんなに、笑顔で再会できたらいいなと思います。

ブルデュー左派とブルデュー右派?

ブルデュー左派とブルデュー右派?

 少し前、「デューイは文章があまりに難しいわりに人口に膾炙しすぎたため、同じ文章を読んでもそれを保守的に解釈する人もいるし、革新的に解釈する人もいる」と先生が話されたときに、「ところで客の君、ブルデューにはそういうところはないの?」と話を振られました。
 その時はびっくりして(私は人と話すのがあまり得意ではありません)、また不勉強もあって「うーん、どうでしょう…」くらいしか言えなかったのですが、それからしばらく考えてみると、これなんじゃないかなあと思うところが少しあったので、今回はそれを少し書いてみようと思います。
「同じことを言っているのに受け取り方が全く違う」というのはそれ自体が非常に面白い現象ですが、しかしながら、デューイについてそうであるように、その多くは単なる読み手の誤解に過ぎないことも少なくありません。今回はそういう「安直な」読みをいくつか紹介・検討して、それに今後陥らないようにしようと気を付けるきっかけにすることを目的にしたいと思います。

A. ブルデュー左派?
最初にはっきり言ってしまえば、ブルデューは左翼です。穏当な言い方をすれば、いわゆる「進歩的知識人」です。これは彼自身認めているといっていい気がします。それに、例えば「文化資本」という言葉には、「支配階級が自分たちの文化(ハイカルチャー)を労働者階級に押し付けようとしており、またその事実を隠蔽している」というイメージが(これ以上なくざっくりとですが)あります。少なくとも、支配階級はそれを無自覚に利用していると。ブルデューはそれを暴いたのだというイメージがあります。特に教育社会学の分野ではそう捉えられることが多いです。
ある意味それは間違いではないでしょう。ただ、それでは不十分な部分もあります。
少しゆっくりと考えてみましょう。「文化資本」があることは何が問題なのでしょうか。批判点は主に2つです。1つ目が、文化を利用することそれ自体への批判。2つ目が、それを隠蔽することへの批判。このうち、後者がよくないことは簡単にわかります。「こういうことが起こっている!支配階級はそれを知らない、認めない!」と。
ただ、ではそれをどのように解決するかということを考えると、結局は1つ目の点に戻ります。つまり、「こんなことが起こっていると初めて知りました。ごめんなさい。この事実を十分に認識して、これが起こらないように常に注意します。」と人が言う時、このような言明それ自体は非常に理想的ですが、制度に落とし込もうとすると、凡庸なやり方にしかならならないということです。
「文化は多様で、良い悪いはないので、ちゃんと尊重しましょう」…もう何度、何年見たか分からないような文章ですね。それくらい大事だということであり、これが不要だというつもりは毛頭ありません(むしろ全ての根幹です)が、はっきり言うとインパクトは弱いですね。
では、1つ目に戻り、文化資本が働かないようにしてしまいましょう。現在の日本に文化資本による格差があるかという議論は、賛成反対含めて山のようにあるのでここでは仮に「日本の古典」が文化資本化しているという仮定で想定してみます。
平家物語』『枕草子』『徒然草』『源氏物語』…これら日本の古典は文化資本による格差を引き起こす原因です。「良い趣味」の家庭ではこういう本を読みますが、労働者の家庭は読みません。彼らが読むのは大衆誌だから、不公平です。やめましょう。
…では代わりは?日本の古典を読まない代わりに、何を学べばいいのでしょう?
ここで「大衆誌(言うまでもないですが大衆誌はあくまで比喩です)を学ぼう」となったらどうでしょうか?まず考えられるのは専門家たちの反発ですが、それが無いとすると、そして知識の「学校化」もないとすると、「身の回の生活や仕事で役立つ知識を教えよう」ということになります。これは美しい響きの言葉で、実際そういう主張がされることは過去に幾度となくありましたし、今もあります。私がここで主に想起するのは、リチャード・ホフスタッターが『アメリカの反知性主義』で分析したような教育です。ただ、そうすると問題として指摘したいのが、そういう教育を受けた人はどのようにして「身を立てて」いくのだろうかということです。つまり、知識が身の回りのものにとどまる限り、どうやって他業種に――例えば高度な専門職――に就くきっかけが与えられるのでしょうか。「じゃあ、みんながそれぞれの立場の知識のみで平等に生活できるように、職業の貧富の差をゼロにしよう」という意見が、2020年になろうとする今日この頃にどれほど説得力があるのかはよく分かりません。
何を言いたかったかと言うと、「教材となる「文化」を選ぶ」ことそれ自体が、すなわちそこで目的とされる「報酬」を定める行為であり、「ゲーム」の場を創り出すことであるということ、そして「文化を選ばない」という立場を取った時、それは階層移動の場としての学校制度という仕組みの放棄、つまりアナーキズムの立場を取ることになるということです。そしてそのいずれもが、説得的な解決案とは言い難いです。では、やはり人は「多様な価値観に目を配り…」という、例の理想論を繰り返しながら、地道に1つずつ修正していくしかないのでしょうか。ブルデューならそう言うでしょう。ただ、そういう玉虫色の結論では満足できない人もいて、彼らが何を言うかと言うと「学校独自の文化」です。実証系の人がたまにいうのは、「ブルデューが主に調査したフランスとは違い、日本の試験は極めて「学校」的であり、それは階層による文化の不平等を反映しない(経済の不平等はここではおいておきます。「経済格差もそれほど反映していない、いわんや文化格差をや」という立場の人もいます)」ということです。日本のセンター試験機械的でテクニックがあれば誰でも合格ラインに乗れるなんてことも言われたりしましたが、逆に言うとそういう利点もあるわけですね。
ただ、この意見をよく見ると、これは要するに現行の試験(そして学校制度)を容認(もしくは支持)する、保守的な意見ですね。「人間本来の教育を!」と叫ぶ人たちとはなかなか相容れないでしょう。

これまで見てきたように、左派的な読みでは、ブルデューを引用して「文化資本をなくせ!文化資本は悪だ!」と繰り返すだけでは、なかなか有効な助けにはなりません。「文化資本」がどのように働くかを見極め、こつこつとやっていくしかないわけです。それがブルデューの立場です。ちなみに、時々、それがじれったい人が「ブルデューは不平等を暴露するばかりで、実践に有効な手段を教えてはくれない」といちゃもんをつけたりするのですが、これはあたらないと思います。ブルデューは、確かに直接的な手段を提供してくれるわけでは必ずしもありませんが、助けとなるアイデアを提供してくれます。この辺りについてはまた後で書きます。

B. ブルデュー右派?
さて、ハビトゥスという概念をご存知でしょうか。「身体化された構造」くらいでとるのが適切(ハビトゥス=身体化された文化資本 ではありません。念のため)だと思いますが、要するに、人が成長する過程で、育つ環境で支配的なものの考え方や身振り手振り、話し方や作法などが身についた状態のことです(たぶん)。よく「ハビトゥス」というと家庭環境ばかりが強調されるのですが、少し考えればわかるように、別に文化に触れるという状況は家庭のみで行われることではないので(大人になってからでも海外に行って現地に染まるということはあります)、当然学校教育で培われるハビトゥスもあります。『再生産』では、例えば前者のようなハビトゥスを「第一次ハビトゥス」、後者のようなハビトゥスを「第二次ハビトゥス」などと呼んだりします。
ただ、家庭で、人生で1番初めに形成されるハビトゥスが全ての基本となるので、家庭で形成されるハビトゥスを最重要視することそれ自体は間違っていません。不適切なのは、これを唯一で不可逆的なものであると考えてしまうことです。
 もし仮にハビトゥスが1度形成されてしまうと元に戻らないものだとすれば、つまり家庭で形成された価値観が学校では一切変わらないとすれば、どうでしょうか。全てが家庭で決まるということは、それは学校という制度の否定になります。もちろんそんな極端なことをブルデューは言いません。しかし、繰り返しになりますが、かなり規定力を強調してはいるのです(でないとハビトゥス論なんてものは出てこないでしょう)。ここが非常に微妙なところです。ブルデューは社会構造の規定力をかなり重要視していて、それにも関わらず、それを打ち破っていくことを「期待」しているのです。
あえて誤解を恐れずに言えば、ブルデューを理解するという意味では、彼自身が左翼と言っているにもかかわらず、議論の内容は保守的だという方が適切なのです(たぶん)。ブルデュー理解は、このギャップを理解するところから始まると言えるでしょう。
構造の規定力の強さは、文化の問題にも関わります。実は私は、前項で「ハイカルチャー」と「大衆文化(サブカルチャー)」に貴賤があるような書き方をあえてしなかったのですが、一般的には、前者は後者に優先すると考えられています。私個人としては、Fateは文学でありAIRは芸術でありCLANNADは人生であることを認めるのにやぶさかではないのですが、全体的な傾向として、そう考えられる傾向にあります。理由はいくつか考えられます。①ハイカルチャーは1000年以上の歴史を持つ。歴史の壁は厚い②ハイカルチャーでは極めて高度な批評眼を持つ受け手が想定されている③制度的に優遇されている④商業的利益を必ずしも目的としていない…など、あげればキリがありませんし、ある程度妥当性があるものもあります。とはいえ、その中にはハイカルチャーの担い手(つまり支配階級)が自らを正当化するために「悪用」したものもあるのでしょうし、実際ブルデューの主な仕事として考えられているものの1つにその指摘(暴露)があることは周知の通りです。
ですが、文化そのものに優劣は無いとあなたは言い切れるでしょうか。『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』と『5分後に意外な結末』は同価値だと、シャガールとぽんかん⑧は同じくらい偉大だと(私はぽんかん⑧先生の方が好きです)言い切れるでしょうか(そもそもジャンルが違うという話ではなく)。
ブルデューはそこには触れていません。彼が問題にしているのはあくまで文化を人々がどう「利用」するかであって、文化そのものの価値がどうかは問われません。しかし、そこに文化の価値の高低を見出すと、容易にそれは優生思想めいたものに陥ります。つまり、「家庭で形成されたハビトゥスが絶対なのであれば、文化資本が働く現状こそ適切な人材を救い上げることができているといえるのではないか」と。
テオドール・アドルノの教養論は、義務教育で子どもが商業文化に曝されるようになってしまったことで教養が没落したというような近代批判をしていたかと思いますが(アドルノ自身は教養のおばけです。そして議論はもっと丁寧なのですが、ここでは単純化しています)、ブルデューの第一次ハビトゥスの重要性を強調しすぎると、その類の結論になっていくのは予想できるでしょう。全ての子どもに同じ文化的環境を用意することなどできませんし、緊急時を除いてはするべきでもないと私は思います。しかしそれによって、学校では救えないような致命的な不平等をもたらしてしまう…これがブルデューを保守的に読むことの末路です。

C. 適切な読みをめざして
私たちは、この結論を受け入れるところから始めなくてはなりません。つまり、左派的にブルデューを読むと玉虫色の解決案しか出てこず、右派的に読むとそもそもあまり救いがなく、学校に来る前の幼い時期にほとんどが終わってしまっているという結論を。
そして適切に「事実」を受け入れたうえで、そこから少数者を引き上げる――もしくは自分が這い上がる――努力をしていかなければならないのです。そのために必要なのが、「無意識」に気づくことなのです。
ハビトゥスが厄介なのが、身体化されているがゆえに「無意識」であるという点です。人は、全く意識せずに特定の振る舞いをするのです。それは本人にとって自明のことであるから、もし仮にそれを疑うような指摘がされても、相手が何を言っているのかが理解できません。正統的な文化とみなされていれば、そもそも問われないことだってあるでしょう。それに疑いの目を向けるというのはそう簡単ではありません。ブルデューが自らの社会学のテーマとして「反省」を掲げたのは、この難しさに挑戦しようとしたからです。すなわち、圧倒的な規定力をもつ社会構造=無意識をまずしっかりと捉え、そこから脱することが重要だと考えたのです。ここで「重要」というのは、本稿で主題とした「政治」のみに限らず、社会科学としての方法論、さらには哲学(思想?)上の立場など、全てを貫いて言えるという意味です。ブルデューには、「事実」から目をそらさず(もちろんそれに批判的検討を加えることは必要ですが、それはあくまでより適切な「事実」をめざすものです)、自分の立場を常に振り返ることこそが、規定から脱する道だと考えていました。そのどっちつかずの立場こそが、ブルデューを適切に読むということではないでしょうか。

なんだか前回の記事と似た結末になりましたが、今回はより具体的なテーマでそれを考えてみることができたのではないかと思います。ただ、結局、ブルデューの言ったことはそういう(ある意味)平凡な研究者倫理だったのかと問われると、違うと返すことはできるのですが、具体的に彼の認識論を(入門書に載っていること以上のレベルで)説明することができません。『社会学者のメチエ』をちゃんと読まねば…

私は何故ブルデューを学ぶのか

なぜブルデューか?

 最近出た、加藤秀俊の『社会学 わたしと世間』(中公新書)という本があります。「新書レベルの社会学の概説本は筆者の興味関心が強く出過ぎている」という巷の評判に違わず、この本もまた筆者の興味が色濃く出ています。立ち読みなのでちゃんと全てに目を通したわけではないのですが、ぱっと開いたページに、柳田国男の名前があげられていて、「日本の社会について知るならこの辺りを読もう」みたいなことが書いてありました(たぶん)。
 確かに、柳田が偉大な「民俗学者」であり、日本の諸学に色々な形で影響を与えたのは間違いないと思うのですが、彼がオーソドックスな社会学史に名前が載っているかと言われれば、正直よく分からないところです。「社会学」と言えば、やはり頭に思い浮かぶのは欧米の学者たちです。「社会学者」をどう捉えるかにも寄りますし、極端なことを言えば、社会哲学者や人類学者、経済学者で「社会学者」と呼べる人は沢山いる(『社会学文献事典』には、アダム・スミスの本も社会学の文献としてあげられています)のですが、厳密に捉えると、つまり、自分は社会学者であると明確に意識して研究していた人に限って考えるならば、少なくとも理論の分野で(実証・計量系はよくわかりませんが…)国際的な評価を得ている日本人は、ほとんどいないのではないかと思います。見田宗介大澤真幸上野千鶴子など、それなりに名前が知られている社会学者はもちろんいるのですが、やはり、マックス・ウェーバーやエミール・デュルケム、ゲオルグジンメルタルコット・パーソンズといった人々と比べると、何となく感じる物足りなさは否めません。
 この辺りの話を――だいぶ古い話ですが――書いているのが竹内洋の『清水幾太郎の覇権と忘却』(中公文庫)です。竹内は、社会学と言えば(執筆時の)10年ほど前までは海外思想家の学説研究が主で、経験的研究は二流だと言われていたと語っています。西欧の大理論家の思想を理解するだけでは「社会学の学」、つまり「社会学学」にしかなりません(この辺、鷲田清一中島義道とかが日本の哲学研究を批判していたこととダブります)。そもそも、欧米の社会学者が自らの研究対象地域としたのは、やはり欧米が中心です。もちろん、それこそウェーバーを想起すればすぐにわかるように、アジアなどの他の地域に視線を注いでいた者も多くいましたが、現代日本を正面から扱ってはいません。私たちが、私たちの住む場所を理解するには、欧米の理論を研究するだけでは、やはりどこかに限界があると言わざるを得ないでしょう(だから冒頭にあげたような柳田国男のように、周辺領域から理論家を引っ張ってくるわけですが)。
 では、日本を知るという目的を達成するには限界があるにも関わらず、なぜ私はピエール・ブルデューという、フランスの社会学者を好み、その思想を学ぼうとしているのでしょうか。それを語るのが本稿の目的です。

 理由は主に2つあります。まず1つ目に、その思想の統合性の高さです。ブルデューという名前を出すと、まず真っ先に「文化資本」そして「ハビトゥス」という用語が思い浮かぶと思うのですが、それはとりあえず置いておいてください。
 そもそも社会学というのは、多くの対象と研究方法をもった社会科学です。既に挙げた学説=理論研究ではない経験的な研究で言えば、質問紙調査、フィールドワーク、言説分析、インタビュー、エスノメソドロジーエスノグラフィー等々。それらをとにかく数を集めて計量的に分析しても、1つの事例を徹底的に読み込んでいって、質的分析を加えても構いません。
「なんでも社会学」なんてことも言われたりするほど、社会学の方法論は豊富です。これは強みであり面白さではありますが、弱みでもあります。学説研究は経験的研究を浅薄だと非難し、経験的研究も学説研究を西欧の後追いとやり返します。莫大なデータに統計のメスを加える量的研究と、少ないデータを緻密に掘っていく質的研究の対立は、もはや言うまでもありません。この構図は今でもあまり変わっていない…というより、社会学研究の多様化により、より混沌としているといえるでしょう。
ブルデューは、これらの対立を乗り越えようとしました。弟子のロイック・ヴァカンは、ブルデューとの共著、『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』で、次のように語っています。
「社会についての完全な科学は、行為者「不在の」機械論的構造主義も、「過剰に社会化された文化中毒患者」という矮小化された形か、程度の差はあれ「ホモ・エコノミクス」の洗練された生まれ変わりという形でしか人々の存在を認めることができない目的論的個人主義も、両方を同時に放棄しなければならない。客観主義/主観主義、機械論/目的論、構造的必然性/行為体としての個人は、どれも偽りの対立である。…これらの対立を乗り越えるためにブルデューは、表面上敵対し合うパラダイムそれぞれの「世界仮説」を、社会的世界に内在する二重のリアリティをとらえることをめざしたひとつの分析形式の諸契機へと変換してしまうのである。」

 ブルデューは、フランスの超絶エリート養成中等教育学校である高等師範学校(エコル・ノルマル)の哲学科出身でした。今とは違う部分もあるそうですが、加藤晴久ブルデュー 戦う知識人』によると、ブルデューが在学していたころのエコル・ノルマルは、文理合わせてひと学年に40人程度。全寮制で、食事や洗濯など、勉学以外のことは全てお手伝いさんがやってくれるそうです。サルトルメルロ=ポンティアルチュセールフーコーデリダも卒業生に名前が並びます。壮観ですね。ブルデューはこういった秀才中の秀才とともに勉学に励んでいました。
彼も当然哲学の道に進もうとしていたのですが、人類学に転身、最終的には社会学へと至ります。とはいえ、その哲学の経験は終生色濃く思想に反映され、事実、ブルデューの文章には哲学者の名前が山のように出てきて、私のような不勉強ではほとんど言いたいことが分かりません。彼の理論的強靭さは、豊富な哲学知識に端を発するものです。しかし、ブルデューは、ただ哲学を引用して社会学の支配しようとしたわけでもありませんでした。『ブルデュー社会学を読む』を著した安田尚によれば、彼は統計学にも通じていました。

 「『社会学者のメチエ』を書く少し前に彼(ブルデューのこと ※きゃくの注)は、統計家の養成機関である「国立統計研究学院」で教鞭をとっており、統計的方法・技法に習熟し、その有効性と限界を熟知していた。そのうえでいわゆる「実証主義」批判を行っているのである。つまり彼の場合、「理論屋」の「実証嫌い」や「統計嫌い」といった非難は成り立たない。」

 ブルデューにとって最も重要なのは、「科学として社会学が成り立つにはどうすればいいか」ということでした。自然科学と違って、対象が極めて自分と近い人間科学―社会学では、対象を客観視するためには、自然科学以上に「認識」に気を遣う必要があったのです。1つの理論や方法論に胡坐をかくという選択肢は、彼にはありませんでした。ウェーバーマルクスもデュルケムも、エスノグラフィーもパス解析も認識論的切断も、彼は状況に応じて使い分けました。
 もちろん、個々の方法論のスペシャリストにとっては穴があるのかもしれませんが、それはともかく――それを考えるのは後世の私たちの仕事です――、自分とは離れた場所にある方法論を取り込み続けた彼が目指そうとしたところは、非常に高い場所でした。その姿勢には非常に学ぶところがあると思います。グランドセオリストでも(からかい交じりで使われる)「統計屋」でもなく、社会学のオールラウンダーなのです。方法論に国境はあまり関係ありません(基本的にはそうだと思います)。これが、私がブルデューを好んで学ぶ理由の1つです。

2つ目の理由は、ブルデュー自己批判の鋭さにあります。
ここで「文化資本」が関係してくるのですが、「文化資本」という言葉を考える際に、私が最も分かりやすいと思うのが、ブルデューのアンケート調査に寄せられた回答者のコメントです。
「秀才や天才を呼び込むと考えられ、顕著な文化資本の所有と結びつけられる」(『国家貴族』Ⅰより。以下しばらく『国家貴族』Ⅰからの引用)フランス語学の成績優秀者と、それとは真逆で、「「きちんとした」学習への意欲がそのまま反映される学習へと誘う科目」である地理学の成績優秀者は、同じ質問に対して対照的な答えを返します。

Q.受賞(=成績優秀 ※きゃくの注)の理由
「選択した小説の独創性。たぶん、文体?」(フランス語)
「僕の答案は中くらいの出来で、それ以上のものではなかった。あまり熱を込めて書いたとはいえない。それほど地理学に惹かれていたわけではないし、正直言って、充分な知識をもっていなかった……このような条件の下では、小論文全体の調子によって体裁をつけるしかない。大局的な見地からテーマを定め、細部に入りすぎて全体を見失わないようにして、文章の流れをさまたげるような数字やデータを1つも入れないようにした。」(地理)

Q.将来の進路(複数回答可)。その理由。
「作家。少年事件担当裁判官、画家。比較的独立していて、孤独であるから。」(フランス語)
「幾分場違いな告白かもしれないが、僕は書くことができればと思っていた。当てにならない希望に人生をかけるわけにはいかないので、治水林野庁に就職しようと目標を定めた。そうすれば、私が好きでたまらない自然に近づけると思ったのです。しかし、残念なことに、この方向に進むことはできませんでした。あまりに科学的な性格が強すぎたからです。のこっているのは、教職の道です。歴史の先生になりたいと思っています。そして、できれば、準備クラスか高等教育関係、大学の先生になりたいものです。」(地理)

Q.美術館に行く頻度
「毎土曜日。展覧会を見て回る。オランジュリー美術館、ルーヴル美術館その他。人類博物館に1度行った。」(フランス語)
「私には、真に重要な美術館を訪れる機会が1度もありませんでした。意義のある展覧会にも行ったことがありません。すべて、パリか大きな都市で催されるからです。オタン市の美術館や、私の住んでいる地域の美術館はすべて訪れたと言ってもあまり意味のあることではないでしょう。一般に、どれも貧弱ですから。意味のない絵画展をいくつか見ましたが、大きな展覧会には1度も行きませんでした。」(地理)

Q.スポーツの実践
「スポーツクラブで、乗馬、テニス、クラシック・ダンス、スキー、水泳。」(フランス語)
「学校で貸される(原文では“le sport imposé par l’écolé”なので「課される」の誤字だと思います。細かいですが… ※きゃくの注)スポーツをなんとかやる程度で満足しています。「なんとかやる」というのは、まさにその通りで、この科目があまり好きでありません。適性に欠けているというのも事実ですが。この活動が押しつけられていることが、嫌いな理由であることも事実です。」(地理)

Q.文化活動、今年度観た演劇作品
「『帰還』『キリン』『ある日、私は真実に出会った』『ベケット』『夏』『白痴』『料理』『クリピュール』『リア王』『椅子』『おお、良き日』『王が死す』『この次、それを歌ってあげよう』『受け入れがたい証言』『道を知る』」(フランス語)
「すでに述べたように、このリセは、文化活動に力を入れていない。したがって、これらの諸点について私の知識が乏しいことに驚かないようにお願いします。今年度は、3つの作品をなんとか観ることができました。『フェードル』『出口なし』『キンナ』です。いずれにしても、文化活動の拠点から遠い田舎に暮らしているので、休暇中にこれらの欠落を生めるのは難しいのです。」(地理)

分かりやすい例をいくつか挙げてきましたが、地理学の成績優秀者に(不遜にも)非常にシンパシーを覚えるのは私だけでしょうか。フランス語成績優秀者は、端的に、しかし優雅な答えを残しているのに対して、地理学成績優秀者は、問題に適切に答えられないことを悔いるかのように――実際にいたたまれないのでしょうが、長文を綴ります。この、「いたたまれなさ」、ハイカルチャーに馴染んでいないことに感じる恥ずかしさ、これこそが「(身体化された)文化資本」をあまり有していないということだと思います。
ブルデューへの批判として、「文化資本という概念は、現代日本には当てはまらない」と言われたりもするのですが、この事例を見るとなんとなく分からないでもないです。日本の学校教育には、「「教養」がないこと」を恥ずかしく思う場面がどれほどあるのでしょうか(とはいえ、ブルデューは生前既にこの種の批判――「アメリカの大衆文化のなかでは、趣味は階級的位置によって分化しているわけではありませんよ」――を受けており、このように答えています。「もっとも大切なのは結果それ自体よりも、むしろその結果が獲得されるプロセスなのだ、ということがわかっていません。」(『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』))。
ブルデューは、「いたたまれなさ」を利用して、カリキュラムには必ずしも載っていない部分での選別を行ってきたとして、自らの出身校であるエコル・ノルマルを批判しています。つまり、自身が学び、選別されてきた場所に対して批判を行ったわけです。これは、彼にとって複雑なものでした。母校に愛着がないわけがありません。しかし、自身も地方出身者で、「いたたまれなさ」を感じてきたブルデューにとって、エコル・ノルマルは、愛憎入り混じった「故郷」であったのです。
彼の批判の矛先は、母校にとどまりません。『ホモ・アカデミクス』では学問の世界を滅多切りにし、『マルティン・ハイデガーの政治的存在論』や『芸術の規則』では哲学や芸術のテキストを相手に、作品それ自体を読むだけではなく、また、単純に歴史的文脈に放り込むのでもなく、両者の間を、緊張感をもって分析し、その政治的意味があることを主張しています。
ブルデューの批判は、やたらめったら全否定するわけではありません。敬意というとまた違うのかもしれませんが、最初から否定ありきで入るのではなく、充分に対象を読みこんで、そのうえで批判を行っていくのです。だからこそ、彼の読解は強度あるものになって…るのかは私はよく分かりませんが。それを判断できるところに私はまだいないので、よく分かりません。
哲学や芸術の話はともかく、自分とその周囲にとにかく批判の目を向けるブルデューの徹底さは、方法論へのこだわりと通じるものがあります。「純粋で普遍的なもの」なんてものは無い、全て、もしくはほとんどが<界>(ゲームのルール)に結びつけられたものである。しかし、この姿勢は、よくいう「相対主義」とは少し違っています。彼は自身を「健全なモダニスト」と言いました。哲学という領域を棄て、社会学という分野に拘ったのも、科学への信頼があればこそです。

社会学は相対的にみれば進んだ科学であり、一般的に考えられているよりも、社会学者自身が考えているよりも、ずっと進歩を遂げています。」(『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』)

 彼にとってみれば、方法論を疑わずにそれに寄りかかっているよりも、常に論争が巻き起こっているくらいの方が健全(程度の低い論争には辟易していたようですが)なのでしょうか。よくブルデューを引用して、「学校教育でのパフォーマンスは家庭環境によって完璧に決定される。だから努力しても無駄だ」みたいなペシミスティックな結論を引き出す人もいるのですが、ブルデュー自身はそういう立場を取りません。彼にとって現状は変えられるものであり(ブルデューにとっての「真理」とは、常にいくらかの誤差を含有する「統計的真理」です)、私たちに強く働きかける社会的構造の働きを知ることは、その現状突破のための手段に過ぎないわけです。
 しかしロイック・ヴァカンらアメリカのブルデューの読者は、そこに矛盾があるのではないかと指摘します。「これだけ構造に規定されているんだよ」と言ってしまったら、たとえそれが「事実」だとしても、人のやる気を損ない、結果としてブルデューが望む現状突破を損なうものではないかと。それに応えるブルデューのコメントは辛辣です。彼にとって、そんな程度の低い話はとり合う必要がないのでしょう。

 「あなたは一方で自由な空間、解放を自覚する空間の可能性を広げてきました。その空間は、これまで象徴支配や社会的世界のドクサ的理解が生み出す否認=誤認によって排除されてきた歴史的可能性を開くものです。しかし他方で、あなたが同時に押し進めている徹底した幻想の解体は、闘争を成立させなければならないこの社会的世界をほとんど生きられないものにしてしまうものです。自覚と自由を高めるための道具を提供しようとする意志と、社会的決定要因の効果をあまりに鋭く意識させて戦意喪失を生みだしかねないことの間には強い緊張関係がありませんか。おそらく矛盾さえもあるのではないでしょうか。」(読者)

 「『ホモ・アカデミクス』のなかで試みたように、私が反省性によってもたらされる道具を利用するのは、無意識によって入り込んだ歪みを監視するためであり、思考を変えることのできる仕組みについての知識を前進させるためです。反省性は科学性を高めるための道具であって、科学の可能性を破壊するための道具ではありません。科学的野心をくじくことが目的なのではなく、その野心をより地に足がついたものにすることが目的です。反省性は科学の進歩に貢献し、それゆえ社会的世界についての知識の進歩に貢献します。それによって、知識に影響を与える社会的制約要因についての知識を前進させる手助けとなり、ひいては同時に科学においても政治においても、より大きな責任を引き受ける政策を可能にします。バシュラールは「隠されたものについての科学以外に科学は存在しない」と言っています。社会科学の場合、ヴェールをはぎ取ることはそれ自体がひとつの社会批判です。それは批判になることを望んだものではありませんが、科学が強力であればあるほどその批判は強力になります。つまりその仕組みが見落とされていなければ効果を発揮できないような仕組みを暴露でき、それゆえに象徴的暴力の根底にあるものに到達できるのです。
 反省性は一種の「芸のための芸」のようなものではありません。反省的社会学は知識人をその幻想から解放できますし、まず何よりも、とりわけ自分自身のテーマに関して幻想など抱いていないという幻想から自分を解放することができます。したがって少なくとも、象徴的支配に受け身のうちに加担したり意識せずに加担したりするのを困難にしていくのに寄与できるのです。」(ブルデュー

 「ですが私は自分の質問に戻らなければなりません。反省性が生み出す幻想の解体は、社会学者に「受け身で保守的な姿勢」をとることを余儀なくさせるのではありませんか。『社会学年報』の創始者はすでにこうした態度に対して自己防衛をしていましたが。」(読者)

 「この質問に対してはまず次のようにお答えしたいと思います。もし、[反省性による]危険が若者の反抗というものへの魅惑を破壊し、若者を落胆させるだけのものなら、それはたいした損失じゃないのではありませんか。若者の反抗といってもほとんどの場合、それは知識人の若者たちの間でしか続きませんから。」
 「…社会学が幻想を解体する効果をもっているのはほんとうです。でも、社会学が前提とし強化している科学的現実主義と政治的現実主義のおかげで、真に責任を引き受けられる領域に完全に専念することができます。そのため、自由の存在しない領域で争うことを避けられるのです。そうした争いは多くの場合、自己欺瞞を隠すための口実でしかありませんから。…」(ブルデュー

 強く厳しいモダニスト、というブルデューの人物像が浮かび上がってきます。実際、彼はサルトルフーコーが行った分かりやすい社会運動からは距離を置いていました。彼の社会批判は、多くの場合、<界>などの概念を用いた、文字上でのものでした。彼は左翼を自任していましたが、短絡的な暴力革命とは手を切っていました。――しかしだからといって「知性中心主義」にも加担しなかったのですが。彼の政治的立ち位置は極めて微妙で、慎重なものでした。彼への安易な紋切り型の批判は、ことごとく的を外します。もしそれが命中することがあるとすれば、それはブルデュー自身の責任というよりむしろ、彼の思想を薄めた「ブルデュー的」なものの責任であることが多いような気がします。

 さて、自分の今いる位置に安住しないことを信条とする彼の論考は、したがって、捉えどころがなかなか見当たりません。ブルデューの本を読まずにどうこう言うのはもちろん論外なのですが、少し読んだくらいでも、論旨は全く分かりません。ブルデュー自身が、そしてデュルケム研究者でブルデューの翻訳者の1人でもある宮島喬が指摘するように、「文化資本」すら、明確に定義できるようなものではなく、議論の途中で必要に応じて使っていくという概念なのです。ブルデューには文化資本の他に政治資本や象徴資本、学歴資本なんていうのもあります。私もブルデューの本は数冊読んできましたが、まだまだ入り口にさえ立てていない感があります。これからも日々闘っていくつもりです。
 さて、話が色々揺れましたが、私がブルデューを読む理由をまとめると、①方法論への疑いが常にあるから②対象への疑いと敬意が常にあるから です。そこには、私自身が、ハイカルチャーに馴染めなかったことも関係しています(北田暁大が同じようなことを言っていました)。しかし、ブルデューを読んでわが身を反省したのは、これも繰り返しになりますが、彼は、やたらめったら全否定しているわけではなく、哲学や美術を十分に勉強しているということです。彼は、さながら修行僧のようでした。「100分de名著」で、親鸞について、「彼は1度も「悟った」と言わなかった坊さんだった」という紹介があったのをよく覚えているのですが、それと同じように、私にとってブルデューは、「分かった」と言わなかった社会学者です。まあ、それっぽいことを実際は言っていたのですが、そこにまとわりつく後ろめたさは、彼自身が理解していたと思います。方法論と対象への絶え間ない自己批判、そしてその2つが「反省」というワードで密接に関係しているブルデューの思考は、私にとっては、フランスという枠を飛び越えて迫ってくる「普遍的なもの」なのです。

三森マツリさんについての個人的所感

三森マツリという「不可解なもの」
「これは偶像の物語じゃなく人間の物語です」――茂木監督のQOPノベライズ帯より


 半年ほど前でしょうか。私はマツリさんを題材にした小説を書いたことがあります。語り手には自分自身を投影したゲームセンターの店員を置いて、彼から見てマツリさんがいかに不可解で、同時に魅力的かを描いた、小さな小さな短編でした。
 私には(当然)小説の巧拙なんてわからないのですが、個人的には今でもわりと気に入っています。特に何も考えずに書き始め、思いもしなかったところに着地したその小説の結末は、こちらからは何もコントロールできなかったのにも関わらず、不思議と違和感を覚えたなかったからです。やっぱり私にとってマツリさんはこういう人なんだなあという納得さえありました。私にとって三森マツリさんという人間は不可解な存在なのであって、おそらくそれは私の無意識においても変わらない。そう確信したことを覚えています。
 今から綴ろうとする妄言は、その「不可解さ」をいささか積極的に語ろうとするものですが、その基本的な構成は、その時書いた小説と同じです。ただ少し「不可解さ」にとどまってみようと提案している点が違うところでしょうか。とりとめのない文章ではありますが、しばしお付き合い頂ければ嬉しく思います。
A
 まずは、マツリさんの「不可解さ」について、それが具体的にはどういうことかを考えてみたいと思います。
 端的に言えば、マツリさんの「はじまり」が見えないことが、私にマツリさんを不可解にさせています。B(ブロンズ)カードを見るに、どうやらゲームセンターで支配人がマツリさんを発見してスカウトに踏み切ったというのがファーストコンタクトであるようですが、ただ、それはあくまで支配人目線で合って、何故彼女がアイドルになったのかは判然としません。

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 基本プロフィールを確認しておくと、マツリさんは10月9日生まれの21歳。所属はフリーターで、特技は「ゲームならなんでも」。生粋のゲームオタクであると同時に、多くの人の前でゲームパフォーマンスを行うことも好みます。面倒見のいい性格でもあるので、彼女を「姉さん」と慕う若者(子ども?)も少なくありません。

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以上のようなことはちょっと調べればすぐに分かるのですが、しかし、これ以上のことを知ろうとすると、手掛かりは一気に少なくなります。それは、マツリさんを応援し始めて丸2年が過ぎた私でもそうです。
 例えば、金銭事情も謎に包まれています。どうも一人暮らしをしているようなのですが、全ての生活費を本当にアルバイトだけで賄うことができているのでしょうか。アイドルは薄給・激務です。ゲームは決して安上がりな趣味ではありません。ふだんどういう生活をしているのでしょうか。
 

なんでそんな細かい点が気になるんだと思われるのかもしれませんが、こういう生活をしているのがマツリさんだけならば、私も特に気になりません。似たような境遇の子――雲巻モナカがいるから気になっているのです。

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 モナカは、フリーター、アルバイトの「先行きの不安定さ」が、マツリさんとは違い、性格として十分に成立しているのです。彼女は自分がなぜフリーターになったのかをしっかりと語り、生活や趣味、そして新しい何かを探すために、数々のバイト――時にはマグロ漁船にまで乗ります――を行います。この突き抜けたフロンティア精神は、モナカの大きな魅力となっています。

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対して、マツリさんはどうでしょうか。カード『制服撮影』の台詞から判断するに、どうやら高校までは出ているようなのですが、18歳からどのような変遷があって現在に至ったのかは全く不明です。また、「中学生」と揶揄されるために勘違いされることも多いのですが、マツリさんの考え方は、基本的には成熟した大人のそれです。抜けたところもあり、ミワコ先生やミミさんと比べるとやや頼りないのは事実(この点はまた後で触れます)ですが、若者をちゃんと諭すことができる立派な「お姉さん」です。しかし、いや、だからこそ彼女は私にとって「不可解」なのです。

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とりあえず年相応に(精神が)成長し、良くも悪くもモナカより「常識的な」思考ができるマツリさんが、なぜフリーター、そしてアイドルという不安定な道を選んだのでしょうか。もし仮に彼女が全てを投げうって自分の人生をゲームに欠けたかったと考えるとするならば、フリーターになるのはまだ分かるのですが、なぜアイドルというわき道に逸れたのでしょうか。パフォーマンスを見せたいなら、動画配信でも何でもあったでしょう。
 当然、このようなマツリさんの過去について詳しく掘り下げたエピソードは、私の見た限りでは存在しません。777☆SISTERSは言うまでもなく、Le☆S☆CaやCi+LUS、ユニットデビューしていない数人の子でもナナスタ加入時のことは振り返られているというのに、QOPはその類のエピソードがほとんど存在しないのです(ファーブはちょこっとあります)。特にマツリさんは、その異色の経歴に比べて、明らかになっている情報があまりにも少ないです。
 また、もう1つ不可解なところがあります。それは、支配人との会話にあります。この種のゲームの例にもれず、マツリさんも支配人に恋愛っぽいアプローチをかけてくることが少なからずあるのですが、そのアプローチは、マコトやスースほど徹底してもいなければ、スミレやキョーコほどの熱量もなく、からかい半分のようなものです。ミワコ先生やミミさんのような、「普段は余裕ありげで、ときどき弱みを見せる」という関係でもなく、常にそれっぽい隙を見せるけれど、実際は捉えどころがない印象を受けます。時々持ち出す「恋愛ゲーム」や「好感度」という言葉も、照れ隠しというより、自分のキャラクターを演じているような気がします。
 恋愛トークはあくまで一例ですが、それに限らず、仕事についても、マツリさんとの会話は、常に謎が伴います。ムスビやレナがそうであるようには、マツリさんは自分の弱みを見せてくれません。それが私には不安の種なのです。
あえて極端な言い方をすれば、マツリさんが本当は何を考えているのか、私にはわかりません。好きなゲームや、バイトのシフトは知っています。ステージ上の笑顔も、メイクアップ中の素顔も知っています。しかし、彼女が何を思ってアイドルになったのか、どこまでが計算でどこからが素なのか、彼女は大人なのか子どもなのか、私は知りません。飄々とした姿の裏には、何かが隠れているのでしょうか。

しかし、マツリさんを必要以上に神秘化する必要はありません。彼女はもっともっと泥臭い「人間」です。
そのことがよく分かるのがQOPのノベライズです。ここには、マツリさんだけでなく、QOPメンバー全員の内面が随所に描かれています。アイドルデビューと同じくらい、ユニットデビューもまた、ナナシスにおいては大きな位置を占めるのは周知の通りです。4人が、何を思ってthe Queen of PURPLEというユニットを結成したのか。ここからは、マツリさんのユニットデビュー、つまり「2度目のはじまり」に目を向けて、考えてみたいと思います。
B
QOPは不思議なユニットです。まず、曲調がアイドルっぽくない。次に、歌ってるのは4人のうち2人だけ。最後に、メモリアルライブに参加するのに新曲がない。…まあ、最後のは冗談ですが、何にせよナナスタのなかでは唯一無二の立ち位置を占めていることには違いないでしょう。
ユメノとマツリさんが歌わないということについては、発表当時から各所でちょっとした波乱を呼びました。今もその渦中にいると言っても過言ではないでしょう。「私の推しがああなるのは嫌だ」という言葉は、今なお私の心をわずかに揺らします。
QOPは、瀬戸ファーブのユニットなのです。ファーブが曲を作らなければ、そしてそれをナナスタに持ってこなければ、そもそも何も始まりませんでした。ですが、ファーブだけではユニットにはなりません。いくつかの偶然が絡んで、このユニットは存在しています。
したがって、ファーブにバランスが大きく傾いているというのがこのユニットの味であり意味なのですが、そこを解さずに、「歌う」という点だけに耳を奪われるのは、ややもったいない気がします。そういう点も確かに大事なんですけどね。実際、自分も3rdの歌唱サプライズでその場で崩れ落ちたので。
さて、そういう話はともかく、QOPが有する「偶然」のうち、その多くがマツリさんに由来していることは間違いないと思います。ファーブがナナスタでバンドを組もうと思った時に、ユメノとムラサキについては即決というか、ほとんど初めから決まっていました。しかし、「ナナスタにはドラムがいない」と悩んでいた時に、たまたまバイトの申し込みで通りかかったマツリさんが、たまたまゲームパフォーマンスでファーブのお眼鏡にかなって、加入することになったのでした。だから、他の子がユニットに加入する余地は十分にあったと思います。
とはいえ、なぜマツリさんが創造主である茂木さんの「偶然」に選ばれたのかは、よく分かりませんし、考えてもしょうがないことです。重要なのは、与えられた偶然の機会をマツリさんが拾い上げたということです。彼女は、自分が音楽の素人であることを理解したうえで、ファーブに手を差し伸べたのでした。


(そうそう、アタシはお姉さんなんだから)
ことを彼女たちの運命に任せたり、他のだれかに任せてしまってもいいのだけれども、ここまで事情を聞いて「あ、そう。がんばってね」と簡単にさじは投げられない。
自分が面倒見てやらなければ、絶対どこかで転ぶ。
そんな3人の姿なんて見たくない!
それなら、答えは決まった。
「やる」 (ノベライズpp.148~149より)


 ここに、マツリさんのマツリさんたる所以があります。彼女は、発せられた助けの声を無視することができないのです。自分が音楽に興味があるから、ファーブの音楽に可能性を感じたから、自分なら力になれるから、ユニットに参加するのではありません。「妹たち」は自分がいないと転ぶから、です。そこには、必ずしも前向きな要素はありません。才能と才能の出会いみたいな、ドラマチックな場面でもありません。妹たちの「お守り」としてマツリさんはやって来たのです。
しかしその後、彼女は自らに課したその責務を失敗してしまいます。ファーブはメンバーを思って曲を作ったのですが、それは結果としてメンバーを裏切るものでした。ムラサキは激昂し、ファーブは絶望する。ユメノは狼狽えて涙を流しますが、マツリさんは一連の出来事を眺めていただけでした。


もし、自分がナナスタに居る他の年長組のように頼りになったり、頭がよかったりすれば、あの場を丸く収めることができていたかもしれない。
支配人やコニーだったら、こんなことになる前に色々と察知して動けていたのかもしれない。
けれど、そうできなかったのは自分の落ち度だと思っていた。
(なーにが、お姉さんだよ……ったく……)
ただ傍観していただけで、年上らしいことなんてしていないではないか。
やはり、現実はゲームのようには上手くいかない。
「いや、本当……ままならないね」
だれに言うわけでもなく、マツリはつぶやくと――。
どうにも手のかかる妹分、ふたりのことを思い浮かべた。 (ノベライズp.240より)


注しておきたいのですが、マツリさんはただ無力さを嘆くだけでは終わりません。上にあるように、駄目であれば、次にどう動くかをすぐに検討します。周到な準備とは無縁ですし、臨機応変に対応する器用さも持ち合わせていませんが、しかしその一方で、失敗からのリカバリーは人一倍早いのです。おそらくそれがマツリさんの長所、というより性分です。
しかし、彼女は鈍感というわけでもありません。人並みに、時には人より傷ついて、それでも立ち上がるのです。
実際ノベライズでも、この後でムラサキに「説教」をしに行く際には、アルコールを入れて――とはいえめちゃくちゃ弱いらしく、ビール1杯ですが――臨まなければなりませんでした。言うまでもなく、ムラサキは未成年です。
ふつう、「未成年に酔っ払いが説教をする」という姿に威厳の欠片も無いと思うのは、私だけではないしょう。それなのに、そんなマツリさんの姿がこれ以上なく愛おしいのは何故でしょうか。
単行本には収録されていないこの「説教」の場面の挿絵として、Ez Barのカウンターに、ムラサキとマツリさんが並んで腰かけている風景があります。2人は背を向けていて、こちらからは表情を読み取れません。普段から大人びているムラサキは、足を組んだりして、一層雰囲気が出ているのですが、その一方でマツリさんは、酔いのためか背中を丸めていて、いっそう身体が小さく見えます。事情を知らない人が見たら、ムラサキがマツリさんを慰めているように見えるかもしれません。

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コンプティーク2017年3月号

「ユメノには言っておくから……ユメノのギターとアタシのドラムと一緒に、その歌でファーブの肩……軽くしてあげようよ」
自分のドラムじゃ力不足だろうと、マツリはそういう本音を呑みこんで、ムラサキへと優しく告げた。
そして、ムラサキはそんなマツリの本音を察することはできなかったのだけれども、なにかあっても、自分より大人であるマツリがなんとかしてくれそうな気がして――。
「わかったよ」
素直にうなずくことができた。 (ノベライズpp.275~276より)

 マツリさんはこの時ボロボロでした。自分の力不足を知り、それをアルコールで誤魔化し、嘘と自覚しながらも虚勢を張るしかありませんでした。
 でも、ムラサキはそれを「誤解」しました。マツリさんのことを、マツリさん以上に信じていたのです。
 ノベライズ支配人もそうでした。彼は、マツリさんはz分が思う以上に「お姉さん」なのだと伝えていました。


「マツリさん、ファーブたちのこと、頼んだよ」


それは支配人からマツリに向けられた――短く、強い、信頼の言葉だった。 (ノベライズp.288より)
 
 自分が思う以上に自分が魅力的だと言ってくれる人の存在は重要ですね。マツリさんがこういった、頼りにしてくれる人からの信頼を励みにしているのは間違いないでしょう。
 
ただ――ただ、私はここに、ある落ち着きのない感情があります。それは、ノベライズを通して、ゲームだけでは知ることのできない彼女の内面を、私が知ってしまったからです。もし知らないままであったなら、ノベライズ支配人がそうであるように、直感や信頼を理由にしてマツリさんを称えることができました。しかし、私は、ゲームでは決して見せない、したがって知りようがない、マツリさんの裏の葛藤を知ってしまったのです。マツリさんに、頼りにしている「お姉さん」ではなく、むしろ私を頼ってもらう「妹」として接したいという衝動を、小さくもってしまいました。
マツリさんが笑うたびにその裏を想像し、何か我慢をしているのではないかと考えてしまいます。しかし、私はそれを問うことはできません。それは、支配人に対する気遣いなのか年長者としてのプライドなのかはわかりませんが、その部分はおそらく彼女が見せたくないと思っているところだからです。だからマツリさんは、画面の向こうでいつも笑っています。もどかしさは、いつも私に付きまといます。
C
 私事ではあるのですが、今年、マツリさんと同じ年齢になったということが、このもどかしさを加速させました。いまや、私にとってマツリさんは、頼りがいのあるマネージメント対象のアイドルであると同時に、頼ってほしいという感情を無責任に抱く、ファンの対象でもあるのです。この2つの間を常に行ったり来たりしているのがいまの私なのです。
 マツリさんは何も変わっていないのに、私が色々なことを知ってしまったがために、変わってしまい、そのジレンマに一人で悩んでいます。
 もちろん、マツリさんだって、大きく変わった部分はあります。GS+カードで演奏することの歓びを叫ぶ姿には、かつての技術不足を悩む様子は見受けられません。ファーブだけでなく、彼女にとっても、QOPが自分を発信する場所の1つになったのだと思います。それは、単なる「お守り」からの脱却であり、飛翔です。

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 でも―心配性なのでしょうね、無理はしていないか、また抱え込んでないだろうかと考えてになってしまいます。期待と不安は、常に一体となって、私のなかに立ち現れてきます。彼女について何も知らないという思いが、いつまでも残ります。そしばらくはそれに向き合っていくことが私の応援の仕方なのかな、と最近は考えるようになりました。メモリアルライブが終わったら、色々あって、しばらく(2年くらい?)支配人業から離れるつもりですが、また戻った時には、それを乗り越えたとマツリさんに言えるようになれればいいなと思います。

「中の人」の「ハルムス」を3つのキーワードで読み解く

「中の人」の「ハルムス」を3つのキーワードで読み解く


 客野支配人

 

 春日部ハル。
新生ナナスタの記念すべき1人目のアイドルにして、777SISTERSのセンター。

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かわいい。

 

 

天堂寺ムスビ。
ハルに続く2人目のナナスタのアイドルで、ハルやナナスタを陰に陽にと支える苦労人。

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かわいい。

 

 

 

 

明るく熱いハルと、冷静でしっかり者のムスビ。好対照な2人は、これまで色々なところで、777SISTERSの、また、ナナシスの中心キャラクターとして、ナナシスを引っ張ってきました。例えば、コンプティークナナシスが初めて表紙を飾ったとき、選ばれたのはハルとムスビでしたし、キラチュナの冒頭で、始まりの「1」を担ったのはハルで、終わりの「12」を担ったのはムスビでした。

ハルがみんなをぐいぐいと引っ張るならば、ムスビはそれを時に抑え、時に助ける。物語が困難な方向に進んでいっても、助け合い、補い合う2人の姿に確かな絆を感じた支配人は、2人を「ハルムス」と呼んで応援してきました。

しかし、ハルムス愛好者には公式からの供給がなかなかなされませんでした。
そもそも、2人は違うユニットに所属しています。例えばムスビの所属するNi+CORAは、スースとムスビの2人しかおらず、非常に固い絆で結ばれています。スースはムスビのことを「マイシスター」と呼び、ムスビも自由奔放なスースを実の妹のように可愛がっています。
スースの家庭環境は複雑で、「スース」という愛称にも実は秘密があったりして、スームスはスームスで非常にエモいのですが、スームスが目立てば目立つほどハルムスの影が薄くなるという辛いジレンマを抱えています。


もっと悩ましいのが九条ウメさんで、いや、あの方ハル好きすぎでしょ。「かしゅかべ」というパワーワードを生み出すほどメロメロなウメ、それに気づいてか気づかないでか、サラリと流すハル。4Uをめぐるエピソードで、ムスビと対立しながらも、ハルは4Uについて熱く語ったりもしてましたね。ハルウメ、さらにはエモムスなんかもあったりはして、これはこれで非常にエモいのですが、ハルウメやエモムスが目立てば目立つほどハルムスの影が薄くなるという辛いジレンマを抱えています。


さらにやばいのがハルニコです。…ハルニコ?そう、ワールドエンドやスタートラインで手を伸ばし合うような合わせ絵になっているハルとニコルは、アイドルというものについて、時系列は違いながらも、悩み、挑み続けています。時空を超え、互いに高め合うその関係はさながら少年漫画のようで、めちゃくちゃかっこいい。今回主に取り上げる『Tokyo7thSisters COMPLETE MUSIC FILE』でも、並び立つ2人が表紙になっていますね。CPの限界を超えようとするハルニコは、これはこれで非常にエモいのですが、ハルニコが目立てば目立つほどハルムスが以下略。

この他にも、KARAKURIちゃんやハル☆ジカ(ちいさな)などいろんな人たちとのいろんな関係があって、妄想が膨らむのはCP厨として大変喜ばしいことなのですが、関係が多様になればなるほどハルムスが見えにくくなっているという現状でもあります。
 ハルムス愛好者は、エピソード内のちょっとした会話の一節をわずかなヒントとして尊みを深めていますが、「王道CPなのに公式供給が少なすぎる…」というのがちょっとした悩みになっています。

 でも、暗い話ばかりではありません。今回紹介する「中の人」、要するに声優さんのことですが、彼女達は、そんなゲーム内でのハルムス供給の少なさを補って余りあるほど、芳醇な尊みをもたらしてくれます。


 「えっ、ちょっと待ってよ。キャラクターと中の人は違うでしょ?」


 ええ、確かにそうです。あくまでキャラクターはキャラクターであって、声優さんは声優さん。これを安易に混同することは厳しく戒められることでしょう。
 でも、声優さんがキャラクターとシンクロし、思わぬ化学反応を引き起こすことも少なくありません。演技の仕方や歌い方に変化が出たり、ライブでパフォーマンスをしたりすれば、それはキャラクターにも大きな影響を与えるのではないでしょうか。

 声優さんは、キャラクターの全てではありません。

 でも、キャラクターの一部ではあります。
 
 だから、私は、キャラクターの一部として声優さんを考えることは必ずしも全否定されることではないと思っています。もちろん、嫌な人に無理矢理勧めることはしません。あくまで好きな人が楽しめばいいと思っています。
 でも、もしこれを読んでくださっているあなたが、そういう考え方に抵抗がなくて、ちょっと知ってみたいと思ってくださるならば、ぜひぜひ1度沼を覗いてみてほしいと思います。この雑文がその一助となれば幸いです。


 さてさて、前置きが長くなりました。今回のお題は「「中の人」の「ハルムス」を3つのキーワードで読み解く」です。さっそく見ていきましょう。

 まずは、中の人のお二人について簡単に紹介します。


 春日部ハル役の篠田みなみさんは、1994年6月3日生まれの23歳。出身は千葉県。身長は147㎝と小柄ながら、ダンスを幼少時より習っており、ダンスの切れは抜群。ナナシスライブでいえば、久遠寺シズカ役の今井麻夏さんとともに「ダンス番長」の異名をとります。実はダンサーやミュージカル俳優に憧れていたが、身長のハンディを感じて声優になったそうですが、ラジオで語られた、「「ナナシスライブの篠田みなみさんを見てダンスを始めた」という手紙をもらった」というエピソードを思うと、とてもドラマチックです。代表作は木幡真琴(「ふらいんぐうぃっち」)、町京子(「亜人ちゃんは語りたい」)など。ラジオは「大地・みなみのカレーチャーハン」「篠田みなみ・指出毬亜のちぐはぐ。」など。

篠田みなみ | VIMS -ヴィムス-

 

 天堂寺ムスビ役の高田憂希さんは、1993年3月16日生まれの24歳。偶然()にももうすぐお誕生日なので、Twitterの動向を見逃さないようにしたいですね。出身は福岡県北九州市で、なんと北九州観光大使も務めています。ナナシスのイベントではあまりやりませんが、「やる気と元気はゆうきから」から始まる一連の挨拶を武器に、バラエティーやイベントでも大活躍です。代表作は涼風青葉(「NEW GAME!」)、依田芳乃(「アイドルマスター シンデレラガールズ」)など。ラジオは「高田憂希・千本木彩花のしゃかりきちゃん」「フレッシュたかまつ」など。「武装少女マキャヴェリズム すくすく矯正するらじお!」は「第4回アニラジアワード<えっちなラジオ賞>」にノミネートされています。

mausu.net

 

 お二人とも人気真っ盛りの売れっ子ですが、意外なことに共演はほとんどありません。絡みが多いのは「温泉むすめ」で、同じユニットに所属していますが、ほんとそれくらいで、篠田みなみさんの呉織あぎり役就任で話題を呼んだ「きららファンタジア」も、ゲーム内での絡みはほとんどないと思います。

onsen-musume.jp

 

これも「中の人ハルムス」の特徴です。共演が少ないため、お二人が語ることの多くはナナシス中心になる。「温泉むすめ」での対談にも、ナナシスのことだと思われる個所が存在しています。
 なお、私は篠田みなみさんと高田憂希さんのお二人の関係を、上のように、ナナシスやハルムスと関係ない文脈で「中の人ハルムス」と書くことがありますが、これは、①「篠田みなみさんと高田憂希さんのお二人の関係」といちいち書くと、くどく感じられるから、②別の略称もうまいのが思いつかない(だーゆき…?)から、という理由に過ぎません。そこに過剰な意味はないことを、あらかじめご理解いただけるとありがたいです(あと、これも蛇足なのですが、敬語表現が統一されていないことがあります。これは私の国語力の問題なのですが、これもご寛恕いただきたく思います)。

 ナナシス関連でもお二人が参加した対談やインタビューは多いです。代表的なのはリスアニのこれ↓でしょうか。

「Tokyo 7th シスターズ」春日部ハル役・篠田みなみ&天堂寺ムスビ役・高田憂希&茂木伸太郎総監督スペシャル鼎談! – リスアニ!WEB – アニメ・アニメ音楽のポータルサイト

 総監督の茂木さんとともに、たくさんのことを語っています。
 『Tokyo7thSisters COMPLETE MUSIC FILE』の対談は、3rdLIVEまでの過去を概観し、メモリアルライブなどの未来を展望するという意味で、これらの延長線上にあり、1つの集大成であるといっていいでしょう。本稿では、野暮ではありますが、3つのキーワードを設定することで、この対談の解説のようなものを行い、中の人ハルムスの奥深さを知っていただこうと思います(なお、文の後に記したページ数は、『Tokyo7thSisters COMPLETE MUSIC FILE』でそのことが書かれているページ数です。適宜参照してくださればと思います)。

app.famitsu.com

 

 中の人ハルムスを考える1つ目のキーワードは「初めて」です。
 実は、篠田みなみさん、高田憂希さんともに、声優になって名前がついたキャラクターを演じたのは、ナナシスが初めてでした(p.60)。篠田さんにいたっては、レコーディング自体が初めてだったそうです(p.62)。初めて演じた役に4年以上付き合っていくことになるというのは、特別な経験だと思います。
「ふたりとも初めて名前のある役を同じコンテンツでもらって、ほぼ同じスタートラインで。そこからお互いに色んな道を歩いてきて、『温泉むすめ』でまた合流した時に感じましたね。「成長した」なんて言うと上から目線でおこがましいですけど、“篠田みなみ”としての芯みたいなものができあがっているなって。」(「『温泉むすめ』声優ペアインタビュー第4回:高田憂希草津結衣奈役)×篠田みなみ(道後泉海役)」より)
これは「温泉むすめ」のインタビューですが、ナナシスで出会い、温泉むすめで2度目の交錯を経験したお二人が、次はどの作品で交じり合うのかには、(主に私の)関心が非常に集まっています。
「スタートライン」という言葉にも注目したいですね。ご存知の通り777SISTERSには「スタートライン」という曲がありますが、これには次のような歌詞があります。
「いま涙がこぼれたら 胸の花にそれを撒くんだ ほら 誰かが描いた線 僕ももう行かなくちゃ 行き先が違くても 信じたらまた会えるよ 君だけのスタートライン」
 「ほぼ同じスタートラインで。そこからお互いに色んな道を歩いてきて、『温泉むすめ』でまた合流した」という部分を読んだ時に、「行き先が違くても 信じたらまた会えるよ 君だけのスタートライン」という言葉がぴったりと重なっているように思いました。もちろん偶然なのでしょうが、こういうところに「おっ」と思います。
 2度目の「スタートライン」。2度目の「初めて」。
 偶然といえば、p.61の写真も驚きました。先述した、ナナシス初の「コンプティーク」表紙と似た構図なのです。もちろん細部が違いますし左右も逆なのですが、これも「2度目の「初めて」」だったらいいなあ、というそういう妄想をしていました。 

https://www.amazon.co.jp/コンプティーク-2015年11月号/dp/B015H35RSE


 構図の類似性についてちゃんとしたことを言えば、ライブ前のカウントダウンは1stライブから同じ構図です。果たしてメモリアルライブのカウントダウンでも見られるのか注目したいところですね。

 

 

 

 2つ目のキーワードは「バイオリズム」です。
これはp.67で言及されていますが、要するにライブでの2人の対照的な心情です。色々なラジオやインタビューでも言及されていますが、ここで改めてまとめてみましょう。
 1stライブでは、「だーみなが、すごく不安なんだって話をしてくれた」(高田さん、p.64)とあるように、篠田さんが不安を感じ、高田さんに頼るという関係だったそうです(篠田さんは忘れているようですが(同上ページ))。高田さんはそれに対して「ムスビとしても高田としても、だーみなを支えたい!ってすごく思った」(同上ページ)。
 しかし、翌年の2ndライブは、「すごくハルに支えられたライブだった」(高田さん、p.66)と語るように、ハル=篠田さんが高田さんをサポートしたようです(ちなみに篠田さんのいう「ラジオ」(同上ページ)は、「ラジオどっとあい きりんとレモンとひまわりと高田憂希」のことだと思われます)。
 実は、2ndの4か月前(4月21日)にナナシス初のLINE LIVEが行われたのですが、その際は篠田さんと高田さんのお二人がパーソナリティで、高田さんが主な進行役でした。もうネットの海にさえデータがなく、正直細部の記憶もおぼろげなのですが、1つ鮮明に覚えていることがあります。
番組の最後に、放送の感想を聞かれた高田さんが、「進行が不十分だった」と涙ぐんだのです。「自分はムスビとしてハルを支えなければならないのに…」と謝り、篠田さんが「そんなことないよ」と慰めていました。


「(篠田さんは――引用者)1stライブから2ndライブの間で変わったなって気がします。1stライブのときは一緒に横に並んで頑張ろうってイメージだったけど、2ndライブだと行きたいところに引っ張って行ってくれてる感じ。」(高田さん、p.66)とありますが、2ndライブ前後は、お二人の関係がまた変化した時期だったと言えるでしょう。ナナシス屈指の名エピソード「ワン・ステップ・フォワード」が公開されたのは、ちょうどそのLINE LIVEと同じ4月21日でした。ムスビが葛藤していたのと同じころに高田さんも葛藤していたのかもしれないと思うと、不思議な運命を感じます。
 その後、高田さんはLINE LIVE第12回では瀬戸ファーブ役の広瀬ゆうきさんや上杉・ウエバス・キョーコ役の吉井彩実さんに「頼れる」と評されるまでに至りました。高田さんの努力が感じられます。
2.5を挟んで、3rdライブでは、また状況が一変します。ミスをしてしまって、「憂希ちゃんに「もうダメかもしれない」って言っ」(篠田さん、同上ページ)た篠田さんと、それをフォローした高田さん。実はここまでは3rdライブ直後の「カレーチャーハン」で聞いており、知っていたのですが、その高田さんも実は角森ロナ役の加隈亜衣さんに助けられていたんですね(p.67)。
 3rdライブの目玉の1つが「ハルカゼ」だったのは言わずもがなですが、この曲にはハルのソロパートがあります。2.5から続く被せ減の歌パフォーマンスかつほとんどこれまでなかったソロパート。それだけで既に大きな重圧だと思いますが、さらにその前でミスをしてしまったとなると、その時の篠田さんの心境は想像もつきませんね。結果として3公演とも成功させたわけですから、高田さんの助けは非常に大きかったと言えるでしょう。
1stでは高田さんが篠田さんを助け、
2rdでは篠田さんが高田さんを助け、
3rdでは高田さんが篠田さんを助けた。
 非常に不安定な、だけど決して不快ではない揺らぎです。どちらかがどちらかに一方的に依存するのではなく、互いに支え合ってここまで来ているというのが非常によくわかる関係だと思います。
「そろそろ一緒に上がりたいよね(笑)。」(高田さん、p.68)と語りますが、さて、メモリアルではどうなることやら。

 

 最後のキーワードは「今ある日常に圧倒的感謝」です。ワードというかセンテンスですが、まあ、気にするな。
ナナシスでの交流は多いお二人ですが、既に述べたように、それ以外での交点は決して多いとは言えません。共演策の少なさに始まり、性格もかなり違う(p.64など)ようだし、お二人がお互いを(高田さんが篠田さんについて)「変わった」(篠田さんが高田さんについて)「変わっていない」と評価するように、歩み方も一定ではないです。お二人ともツイッターをされているのですが、ツイッターでの投稿も、お互いについてのパーソナルなもの(「○○ちゃんとデートしてきた」報告とか、リプライをめっちゃ送り合っているとか)は非常に少ないです。こういうところを見ると、支配人ではない人に「篠田みなみさんと高田憂希さんっていいコンビだよね!」といったとしても、首を傾げられるのではないだろうかという気さえします(そもそも支配人でない人がこの2人の関係について考えることがあるのだろうかとも思いますが)。
でも、篠田さんの誕生日に、日付が変わるまでLINEでやり取りをしていたとか、篠田さんのミュージカルの初主演時に応援イラストをLINEで送ったとか、ちょっとした、でも仲が良くないとしないだろうなと思わされるエピソードを見たりはするのです。また、これまで紹介したような、ナナシスに関する2人の思いを知ったりすると、「2人の信頼関係はやっぱり強いに違いない!」と(いくぶん安直に)思うのです。中の人に注目し始めたはじめのころ、私はこのように悩んでいました。ナナシスにおける経験の濃密さと、プライベートな情報の少なさ。このずれはどのように捉えればいいのだろうか。。。

「声優さんだってサービス業なんだから、そこは大人になれよ…」という呆れた声が聞こえてきそうです。もちろん、私も、ビジネスパートナーとしての信頼とパーソナルな親交の違いは理解しているつもりなのですが、「プライベートでも遊ぶ」(p.64)とか聞くと、やっぱり期待しちゃうんですよね。これは声優オタクあるあるなのか分かりませんが、「プライベートでも仲がいい」という言葉に(プラスにせよマイナスにせよ)過剰反応するというのは、少なくとも私にとってはよくあることです。「プライベートでも仲がいい」って言ってるけど、この方とこの方が2人でどこどこに行ったって全然見ないよなー。いや、まあそうだよね、客へのサービスみたいなものだよね、思い出してみると、口調もそう言えばちょっとぎこちなかったような気がするな、まあ、これが普通だよねーって勝手にほんの少し落ち込むのです(あくまでほんの少しですが)。
ましてや、中の人ハルムスには、キャラクターのハルムスを少し重ねて見ちゃう部分ができてしまうので、できれば中の人も仲がいいといいなあ…なんて思ってしまうくらいはご理解いただけると嬉しいです。

とにかく、お二人の仲について、ああでもないこうでもないと考えていた時に、次のような話をツイッターで見ました。
とある声優さんお二人についてのエピソードなのですが、某アイドルコンテンツで同じユニットに所属する2人の声優さんは、ほとんどLINEのやりとりをしないそうです。それを知って、「もしかして2人はあまり仲が良くないのだろうか」とそのお二人のファンは少し不安に思うのですが、それに対して、彼らは次のように続けたそうです。「○○とはほとんど毎日会うから、LINEのやりとりをする必要がないんだよ」
また、これは声優さんとはあまり関係ない私の友人の話なのですが、彼曰く、「自分はバイトが終わった時に、「ばおわ」(バイト終わりの略)ってツイートするけど、「ばおわ」ってツイートをしなくなった時が本当にバイトに馴染んだってことになるんだろうな」、つまり、何かをしてもいちいちツイッターで報告しなくなった時、それは意識に上らないほど当たり前になった、ということを示しているのではないだろうかと言ったわけです。

会って話すのが普通ならLINEでのやりとりはいらないし、LINEで話すのが普通ならツイッターでやりとりする必要はない…お二人のツイッターでのプライベートなやりとりの少なさは、もしかしたらLINEでの日常的なやりとりの多さに起因するものなのかもしれないと、この声優さんたちのエピソードを聞いた時に思いました(もちろん、ツイッターやネットが大好きな人もいるので、一概には言えないわけですが。でも、お二人に関しては、2015年にはちょこちょこあったそういうツイートが、2017年以降にはほとんどないというのは1つ言えるかもしれないです)。でも、おそらくそれを検証する機会はないでしょうし、たま~にツイッターに投稿される断片的な情報をもとに、勝手な期待と妄想を膨らませることくらいしかできません。一難去ってまた一難。信頼関係が存在する可能性はあるのかもしれないけど、それがあると明確に言うことがとても難しい。このエピソードみたいに、ご本人が話してくれるとは限りません。LINEは基本的に閉じられたSNSです。それをファンが知ることはまずほとんどないので、私はそれにやきもきするしかない。発せられる言葉の何気ない端々からこぼれて、その場に居合わせた人が「えっ?さらっと流れたけど今のどういうこと…?」と驚き、内容を吟味して尊みを噛み締めるのだ…
ここまで考えた時に、はっと気がつきました。これって、キャラクターのハルムスと同じではないだろうか、と。


エピソードで切り取られるのはドラマティックな一場面であって、毎日繰り返される地味なレッスンだとか、他愛ない会話は、エピソードには入りません。私はエピソードでのハルムスが少ないと不満を言いましたが、もしかしたら、中の人がそうである(と私が勝手に期待している)のと同じように、あまりにも日常化されてしまって、目立つ場所にないのではないだろうか。例えば、レッスンをする時の買い出しに行くのはハルとムスビの役目になっているだとか、777で会議をする時に、ムスビの席はハルの隣にあるとか。ハルの毎日の掃除に1番付き合っているのはムスビだとか。そういうこまごました、日常的なところにハルムスはあるんじゃないか…?
自明視された関係に目を向けることは難しいです。わざわざ言及されないからです。それは、「ある」程度が高すぎるために「ない」のと同じだと勘違いされてしまいます。某人気ラノベの某ヒロインは「空気」と陰口を叩かれていますが、空気がなくなれば生きていけないことにはなかなか気づくことができません。
そういう風に考えると、供給が少ないというのは、必ずしも悪いことばかりではないのではないのかもしれません。関係が「ない」と考えるには、積み重なってきたものが大きすぎる。ならば、当然のように受容してきたものの中にこそ、実はすごいものが眠っていると考えた方がいいのかもしれない。エピソードへの態度を少し改める必要があると思いました。キャラクター以上に情報が限定されている中の人ハルムスを考えていくことで、キャラクターハルムスにも通じる考えの一端を見いだせたような気がします。

 

 

 3つ目は少し自分の趣味というか意見がかなり強く出てしまいましたが、これも自分の思う魅力の1つなので、ご勘弁いただければと思います。
 本当はだーみな(普段はだーみなとかゆっきーとか呼んでいるんですが、紹介文ではさすがに自重しました)が気を許した相手にだけ甘える話とか、LINE LIVEでのハグと3rdでのハグは意味が違っててエモみがやばいとか、だーみなが初めて作ったバレンタインチョコを受け取ったのはゆっきーだったとかそういう話もしたかった(個人的に尊みが極限値をマークしたのは「ハロウィン衣装一致事件」です、「ボイスチャンネル」と「お渡し会」でチェックだ!)のですが、さすがにキモオタ感とCP厨感、あと声豚感が強すぎるのではないかと思ってやめておきました。とりあえずこういうワードが気になった方はお二人のツイッターを見てください。沼はいつでもあなたを待っています。
 記述は、基本はソースを読んだり聞いたりしながらおこなったのですが、頓珍漢なことを言っている可能性も十分あります。何かあればご指摘いただければと思います。
 あと、最後に、公式供給が少なくても悲しいことばかりではないと言いましたが、普通に公式供給欲しいので(え?)、こんなやせ我慢丸出しの悟ったような私を煩悩で溺れさせるくらいの公式供給をください。とりあえずだーみなとゆっきーは2人でラジオしてほしいな。ハルムスは777合わせでウエディングドレスのカードを作ってほしい。ジューンブライドもできたし、期待しています(茂木さんの考え的に、だいぶ後になるかもしれないけど)。
 中の人ハルムスは、先ほど軽く触れましたが、ぶっちゃけ、支配人とぼか旦那・女将さんくらいにしか知られていない、かなりマイナーなコンビだと思います。それにも関わらず、「えっ、これ仕込みでやってるんじゃなくて、偶然こうなったの…?」と驚愕するようなネタがガンガン放り込まれます。神に愛されすぎている。
 『COMPLETE MUSIC FILE』以外の具体例はあまりあげなかったので、本当にそうなのかと疑う方もいるかもしれませんが、そういう方はぜひご自身の眼で確かめてみてください。まずは何度か紹介したこの辺りを。

memories-of-travel.com

「Tokyo 7th シスターズ」春日部ハル役・篠田みなみ&天堂寺ムスビ役・高田憂希&茂木伸太郎総監督スペシャル鼎談! – リスアニ!WEB – アニメ・アニメ音楽のポータルサイト

 

あとはツイッターを。

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 篠田みなみさん、高田憂希さん、ご両名のご活躍を、一ファンとして、今後も楽しみにしており

ハルムスの話:私にとってハルムスってなんだっけ

ハルムスについて
                                   客野支配人

 疲れました。
 ハルムスの話です。
 
 私は春日部ハル×天堂寺ムスビ、つまりハルムスが好きです。
 しかし、これまではほとんど、読んで「はー無理尊い」と言うばかりで、自分から特に何かを発信するということはしませんでした。
 ですがつい最近、ハルムスの神として、平素より私が尊敬するお方のハルムス漫画を読ませていただき、その素晴らしさに衝撃を受けました。
 こんなにすごいものがあるなんて…!
 そして思いました。自分も書いてみたい。
 残念ながら絵は描けません。考察はしたくありません。音楽も作れません。となると、あとは小説しかないではないか!これ以上なく安直な理由で、私はハルムス小説を書こうとしたのでした。元々小説が好きというのはあったのですが、実際に書いたことはほとんどなく、未知への挑戦でした。
 
 しかし、いくつか書いて、私はびっくりしました。つまらない。嫌悪感さえ覚えるものがほとんどだったのです。
 アップして残しているものは一応許容できると判断したものなのですが、これではハルムスについて何も伝えられない…

 なぜつまらないのかというと、単純に私の技術の無さでした。「こういうシチュエーションいいよなあ…」の「いいよなあ…」を文章に落とし込めない。ぎこちないものになってしまう。表現は角ばり、会話は上滑り、展開は唐突。伝えたいことを伝えられない、自分の技術の無さを呪いました。

 しかし、ふと思いました。
 技術も大事だけど、それ以前に、自分はハルムスの良さというのをちゃんと認識できていないのではないか…?なんとなくぼんやりとしかわかっておらず、言語化できてないから、それを文字化することもできていないのではないか…?
 そのような仮定をして、自分に尋ねました。ハルムスのよさとは?

 …尊い

 だめだこりゃ。小説も失敗するはずだと思いました。技術云々の問題以前に、何を伝えたいのか自分でよくわかっていない。

 だから、小説を書く前にまず、自分が何を伝えたいのか整理してみることにしました。それが今回の主題です。ハルムスってなに?ハルの良さって?ムスビの良さって?
 人によってはこれを考察と呼ぶのかもしれませんが、私にとってはこれは単なる事実整理です。単なる事実整理ですが、整理するのは私なので、どうしてもそこに主観は入ってきます。それがたぶん伝えたいことなのです。
 どなたかが、「あ、それいいよね!そこ自分も推したいとこ!」と言ってくだされば嬉しいなあと思いながら、今回は書いてみることにします。

1、 私にとってのムスビ
さて、まずはハルとムスビ、それぞれについて考えたいと思います。
まずムスビですが、私にとっての彼女の魅力とは、「悩み続けるところ」です。
エピソード「ワン・ステップ・フォワード」を読めばわかると思いますが、ムスビは、自分にとってアイドルとはなんなのかを一生懸命考えています。
印象的なのは、劇中にも出てきた、焼きそばパンをめぐる場面。
大好きなはずの焼きそばパン。その大会なら、絶対に優勝したいと思うはず。それなのに、負けても悔しいと思えない。自分にとって焼きそばパンってなに…?
焼きそばパンに限った話ではありません。例えば、厳しい口調や態度。例えば、コンプレックスだった歌声。
「完璧超人」ではない「本当の自分」を構成していたはずの1つ1つの要素が、実は自分にとって、そんなに大したものではなかった。
答えだと思ったものは、実は新たな問いでしかなかったのです。それを彼女は、「自分だけスタートラインに取り残されたみたい」と表現します。自分は何物も見つけることができていないのだと。

しかし、エピソード「遠回りして、見つけたもの、大切なもの」においてムスビは、それを逆手にとって、「「本当の自分」とは、迷いながら答えを探すことだ」と考えます。つまり、「「問い」を作り続けること」こそが彼女にとっては「答え」なのです。
でも、16歳というまだまだ若い彼女は、その「答え」がどれほど難しく、厳しいものであるかを理解していなかったのです。
「「問い」を作り続けること」はエピソードでは「探究」という言葉になっていますが、その最終到達点として彼女が選んだのは、「パフォーマンスを完璧なものにする」というものでした。しかし、これはミスでした。確かに、「パフォーマンスが完璧である」というのは、1つの目標となりうるものです。しかし、「「問い」を作り続ける」という視点に立つならば、「パフォーマンスが完璧である」ということは、ゴールの1つの候補でしかありません。「パフォーマンスは完璧とは程遠いが、なぜか人を惹きつける」。これもまた1つの到達点としてあるはずなのです。
真に「探究」ということを目標にするならば、ゴールは「観客を感動させる」というエンターテイナーの条件のもとに、複数あるということを理解していなければならないのです。
しかし、ムスビはそれに気が付きませんでした。ひたすらトレーニングを重ねて、完璧なパフォーマンスができたら、それでゴールにたどり着けるのだと思い込んでしまいました。だから、それが誤りであると観客から突きつけられると、全く対応できなくなってしまったのです。
「探究」という言葉はそんなに甘いものではないのです。少なくとも、1つの「答え」に固執している人間では、達成はおろか、それを理解することさえできない。
「「探究」を達成するためにはこれ(例えばパフォーマンスを完璧にすること)をしたらいい」というのは転倒した発想です。「「探究」を達成するためには、ひたすら悩むべきだとは思うが、よくわからない」というほかありません。

エピソードでは、それが丁寧に語られます。アイドル部部長は「完璧なパフォーマンスを見たいわけではない、天堂寺ムスビを見たい」と言いますが、それはまさに「迷っている姿こそが「答え」である」と言いかえられます。また、「完璧なパフォーマンス」をしていたはずなのに、懸命に自分を応援してくれていたアイドル部部長が見えていなかったというのは、実はムスビのパフォーマンスは「完璧なパフォーマンス」ではなかったということであり、もし、本当の意味で「完璧なパフォーマンス」をしていたら、結果はどうなっていたか分からない、もしかしたら観客はウケたかもしれない、ということを示しています。安易に「悩むことこそが「答え」だ」と言わないこの部分は、エピソードの中でも味わい深い部分だと思います。

さて、エピソード「遠回り~」で、ムスビはこのようなことを完全に理解したのでしょうか?私はそうは思いません。きっとこれからも色んな「答え」に飛びついて、傷つくのだろうと思います。しかし、その姿こそが「答え」である可能性が今のところは1番高いわけです。
曖昧なところを、実践をもって進もうとする。その姿が私は好きなのです。

2、 ハルについて
春日部ハルは、私にとって不思議な存在です。
ぶっちゃけ、「推し」ではありません。私の推しはムスビ、レナ、マツリさんであり、その次、「推し」に近いところにハルが来ます。
したがって、ハル「だけ」を見た時にはどうしてもムスビより語る部分が少なくなり、また、ハルムスとの関連で語る部分も多くなります。そのような態度がよいものではないのは百も承知ですが、こればかりはどうしようもないのでご容赦願います。

私がハルを鮮烈に意識したのは、エピソード「ノッキン・オン・セブンス・ドア」です。その3話、「逃げ出した記憶」――といったらもうわかるとは思うのですが、グラビアについて語るところです。
自らの実力不足で歌やダンスの仕事が減る一方で、グラビアの仕事が増える。
グラビアを「恥ずかしい」という理由で忌避するアイドルはたくさん見てきましたが、そこまであけすけには言ってないにしても、明確に、性的な視線を意識して嫌悪感を示す二次元アイドルはほとんど記憶にありません。
身もふたもない話をすれば、多くの二次元美少女コンテンツは性的欲望と密接に関連しており、どうしても脱いだりエロいことをさせなければならないのですが、そこでキャラに明確な拒否反応を許してしまうと、その後のコンテンツ展開がやりにくいということなのでしょう。あくまで、「ちょっと恥ずかしいけど、仕事には前向き」でなければならないのです。
語弊を恐れずに言えば、ナナスタのアイドルも、大半がそうだと思います。
私は、そこは妥協するしかないところだと思いますし、あくまでそれはそれとして楽しめばいいなと思っています。私も、水着や、水着みたいな衣装を着た美少女大好きですし。
でも、だからこそハルの発言には驚いたのです。それがナナシスのエピソードの第一話ということもあって、ナナシスにハマるきっかけにもなりました。こう言わせたということは、この子には水着を着せないということか。そのチャレンジングな姿勢に、私は感銘を覚えたのです。

しかし、その後のナナシスの展開は、私の予想を完璧に裏切りました。
ハルのカード、水着がめちゃくちゃ多いのです。

Gだけでなく、Pカードでも水着があります。しかもけっこう大胆な。
かなり驚きました。え、なんでそんなことになってるの???

エピソードを読み返してみると、確かに、ハルが「グラビアの仕事が多くて云々」の話をしているのは、彼女の回想のなかです。支配人やコニーさんがその事情を知らず、水着の仕事をとってきて、ハルが悲しみを隠して仕事に臨むという話は成り立たなくはありません。プロ根性で作り上げた笑顔の下から時々ふっと見える絶望の影がなんとも妖艶で大人気、と言えるのかもしれません。
でも、それはちょっとどうなんだろう?と思います。それは確かにある種の魅力なのかもしれませんが、そんなにはっきり言ってしまえば「下衆な」話を、全年齢対象のアイドルゲームの主人公にやらせるのが、茂木さんの描きたかった物語なのでしょうか?

そうだとはどうしても思えない、いや、思いたくない私は、別の可能性を探りました。
つまり、「ハルがグラビアを嫌いになったのは、「性的視線」ではなく、別の理由ではないか。だから、それを乗り越えた今はグラビアに積極的に取り組めるのではないか」という可能性です。
その可能性を妄想したのが「ハルムスの二次創作です(やや原作をはみ出しているかも)・推敲」(http://kyakunon20.hatenadiary.jp/entry/2017/10/30/111124)でした。
以下に、簡単に内容を要約します。
当時色々なことがあって落ち込んでいたが、「グラビア」は「守ってくれるものがなく、自分がむきだしになった状態」になってしまうため、「落ち込んでる自分」を晒すことになってしまう。それは娯楽を求める客をがっかりさせることだし、自分も弱いところをいじられるようで嫌だ。だけど、自分に自信がある今なら、みんなを楽しませることができるから、そう悪いことではない。
自分で書いていて、かなり微妙だなと思います。そもそも、「グラビア自体はそれほど嫌じゃない」という前提に立たざるを得ないので、かなり夢見がちな話になってしまうのは避けられません。公式にうまい説明が出てくるのを望みます。

なんでここまでずっとグラビアの話をしたかというと、ハルが、こういうかなり辛い過去を過ごしてきたということが、現在に活かされていると思うからです。
エピソードの要所で、ハルは決断を下します。それは一見すると大胆だったり無謀だったりもするわけですが、それを思いつくのは、彼女に天性のアイドルの素質があるから(だけ)ではなく、どん底を知っているからこそではないかと思うのです。どん底というのを示す1つの例がグラビアというタブーに触れたことだと思うのです。
普段はぽわっとしていて、天然のような彼女が、実は色々と考えている。そう思ってエピソードを読むと、見方が違ってくる。それが深みかなと思います。

3、 ハルムスについて
さて、いよいよハルムスについて整理したいと思います。
繰り返しになりますが、私の、ハルとムスビの好きなところは、ハルが「辛い経験を現在に活かしている」こと、ムスビが「迷い続けていること」です。
この2人が出会うと、どういう反応が、魅力が生まれるのでしょうか。
大筋を言ってしまえば、それは「対立と葛藤」です。

ハルとムスビは、仲がいいです。ナナスタに入ったのは、ハルが1番目で、2番目がムスビ。3rdライブのハルカゼの前の、高田憂希さんの口上でも触れられ、キラチュナで1(ONE)がハル、12が(TWELVE)がムスビであることからわかるように、そして篠田みなみさんがハルとムスビを「夫婦」と称したように、隣で長く同じ時を過ごした2人は、その存在が当たり前すぎて重要性を普段は忘れてしまう「空気」みたいなものです。
お互いについて言及することはあまりありませんが、そのことがむしろ以心伝心を表しているみたいで最高。…たまにはわかりやすくイチャついてほしいなあも思いますけどね!
そんな2人だからこそ、対立すると目立ちます。エピソード4U「12・アングリー・アイドル」で、4Uと対決するリスクを心配し、対決するならその意味をちゃんと考えようと言うムスビに対して、ハルは意味なんて関係ないと言います。それはムスビに対して、はっきりと「違う」と言った瞬間でした。
なぜ2人の意見は違ったのでしょう?
ムスビが、対決する理由を、自分と4U以外に求めようとしたのに対し、ハルはあくまで自分と4Uのことを考えますが、その差を生んだのは、アイドルへの想いでした。
ムスビと違い、ハルにとって、アイドルを否定することは絶対的に間違いだったのです。それはハル自身の、アイドルへの強い想いです。
このエピソードでは、ムスビ以外の777のメンバーは基本的にハルと同意見ですが、冷静な判断をぶち壊してでも自分の意見を通そうとしたのはハルだけでした。彼女のアイドルへの想いは、人一倍強い。
それが、さんざん辛い目に合ってもそれでもなおもう1度アイドルになりたいと叫んだ、彼女の過去にあるのは明白です。
しかし、ムスビはハルの過去を(少なくともエピソード4Uの時点では)知らないと思います。いや、知っていても基本的には同じだと思いますが、ムスビは、なぜハルがそこまでアイドルにこだわるのか分からないのです。
つまり、天性ともいえる、アイドルへの強い強い志向がハルにはあるのです。ところが、ムスビにはそれがない。自分にとってアイドルはなんなのかがわからない。
一生懸命考えはするけれど、考えれば考えるほど、理詰めで考えようとすればするほど、フィーリング的な「言葉では言えないけど、なぜかとにかくアイドルが好き」というハルの考えとは離れていくのです。
ムスビは、アイドルに対して真摯でありたいと願っています。それは間違いではないでしょう。でも、それは、最初からアイドルという存在に憧れていたハルとは異なり、あくまで「本当の自分」を探す手段だったのです。
この意味において、ムスビはハルに対してアイドルとしての「引け目」を負わずにはいられないのです。
しかし、「引け目」は同時に、ハルが、自分がもつことができないものを持っているということを「尊敬する」心理とも言えます。
相手を疎ましく思う「引け目」と、近づきたいと思う「尊敬」という、相反する感情がムスビの中には渦巻いているのではないでしょうか。

では、ハルはどうでしょう。ハルはムスビのことを普通に好きとだけ思っているのでしょうか。そうではないような気がします。
ただ、今の私にはうまく思いつきません。今考えられる限界を書いてみますが、正直、いまいち説得力に欠けると思います。その理由も後述しますが、とりあえず正確な理解は今後の課題ということにして、書けることを書いてみます。

ムスビは、エピソードを読めば分かりますが、悩む時は基本的に全部曝け出して悩みます。問題にぶつかって、倒れたらまた起き上がる。その姿に私は魅了されるのだというのはすでに述べました。その「問題」の中には、彼女の悩みである「幼いころから周囲の期待に苦しんでいた」ということも含まれています。ムスビは過去と向き合い、答えを出そうとしているのです。
その一方で、ハルは、エピソード4Uについての記述でも書いたように、過去をあまり積極的には仲間に開示していないようです。彼女の中では、人に話すことができるほど、十分には苦しい過去を乗り越えることができていない。ムスビもそれは同じなのに、むしろ自分から自分の過去を暴露していく。その勇気は、ハルは持っていない。長く隣にいるムスビにさえ自分の過去を話せないことを、ハルは恥じている。
グラビアの話で言ったことを踏まえると、ハルは、仕事においては、辛い過去を活かせるほど強くなっています。ただ、それを人に話すことはできていない。
もちろん「仕事においては克服しているのに人には話せない」というだけでは、負い目とは言えません。他の誰かがその話を聞きたいと思っているのならまだしも、(ムスビのように)自分の問題解決のために自分の過去をわざわざ人に話す必要はないし、普通はそんなことを負い目と思いません。
ではなぜ負い目を感じるようになるかと言えば、ムスビの視線があるからです。既に言ったように、ムスビは、ハルの天性ともいえるアイドルへの強い思いを尊敬し、また、同時に疎んでいます。ハルの過去を知らないムスビの眼には、その思いは極めて純粋なものに映るでしょう。
しかし、実際はそんな純粋なものではありません。彼女は1度挫折し、その後でアイドルにまた戻ってきたからです。彼女の過去を知れば、純粋だと思い込んできたムスビの幻想は解ける。
ハルのアイドルへの思いは、「純粋」なものではないのに、彼女は「純粋」を装う。これが、ハルが過去をムスビに明らかにしないことによって、負い目を感じる理由です。

しかし、この考えには穴があります。既にムスビについて述べたように、ハルの過去を知ることは、ムスビが、ハルのアイドルへの思いに対して抱く気持ちを変えることにはなりません。ムスビが「引け目/尊敬」を感じるのは、「純粋」というところではなく、「天性」というところなのですから。むしろ、挫折したのにも関わらず諦めないという、「純粋」よりもさらに強い思いは、ムスビの、ハルへの思いを強くするものでしょう。
だったら、ハルはムスビに喋ってしまった方がいい。
これが、今のところ私が限界を感じていると思う理由です。

ただ、限界を破る道が、全く見えないわけではありません。
それは、ハルにとって、ムスビが幻想を抱いたままでいた方がいいという可能性です。
あまり細かくやってしまうと考察になってしまうので、簡単に述べるにとどめますが、要するに、「ハルが、ムスビは自分のことを「純粋」な存在として見ていてほしい、と思っている」という可能性です。
ハルのアイドル観にも深くかかわってくる話ですし、たぶん、これに答えを出すのが、私にとってのハルムスの到達点の1つだとは思うのですが、あまり公式にそういうことをにおわせる場面は無かったので、ここでは判断は保留しておきます。

ちなみに、このハルのムスビへの思いに決着をつけられないから、私が描くハルムスは基本的に、決着をひとまずつけたムスビの視点で書いています。いつかハルの視点でも書いてみたいですね。

4、 終わりに
最後に課題が見えたところで、今回の現状把握は概ね終わったということにしたいと思います。本当はスームスとかハルウメエモムスとか色々考えないといけないことはあると思うのですが、とりあえず、今の自分の手の届く範囲のものは、少し見やすくなったかなあと思います。
もう少し短くするつもりが、特にムスビについてうまく言葉をまとめられずふわっとした感じになってしまったのは反省点です。
ハルについても今後は勉強したいと思います。