まだ人じゃない猫 ーー文野環のススメ

 最近、樋口楓さんがちょっと気になっている。1期生とりわけJK組の腰の低さ・勤勉さ・聡明さは、かねてより印象深かったのだけれど、件の京まふ→ド葛本社で改めて知ることになった。

 所謂「大先輩」のコメントというのは、それだけで面白さが発生する。もちろん、たかだか1年2年の差で先輩も後輩も無いし、強引な権威づけには断固反対したい。しかし同時に、先輩後輩関係やランキング制は、ドラマを生み出すツールとしてまだまだ現役だと思いもするので、つい興味を持って聴いてしまう。

 先輩は後輩をどう語るか。先輩は後輩をどう捉えているのか。発せられるコメントは妥当か。妥当ではないけれど面白いか。妥当だし面白くもあるか。妥当でもないし面白くもないか。愛があるか。などなど。

 同期からだけでは見えないライバーの姿が見えるのはとても面白い。

 「伝説の一期生」であるところの樋口楓さんは、「最近の後輩」をどのように語るか。

 強面の印象のあるでろーんだが、コメントはいつも優しくて的確だ。

 例えばこれ。

YouTube

 19分頃から、にじさんじ統合→コラボとかがしやすそうだから楽しみ、歌とかでやりたい→歌といえばにじさんじの歌うひとたちは〜という流れで、町田ちま、緑仙、鈴鹿詩子、ドーラ、竜胆尊、夢追翔、森中花咲…について語っていく。話が全部具体的なので分かりやすい。「この人はちゃんと観ているんだな」と安心して聞くことができるし、面白い。しかも鋭い。

 例えば、詩子お姉さんの良いところについて、樋口楓さんが語っていた「選曲がいい」というのは唐突というか初めて聞いたのだが、のちに緑仙さんとのコラボでYouTubeが上がった時には、このときの言葉がよぎって「こういうことか、なるほど〜!」と思わず膝を打ったものだ。

 

 そういうわけで「後輩を語る樋口楓」にじわじわ関心を持つようになった私だが、直近のもので面白かったのはこれだ。

YouTube

 文野環さんの話。

 「町会議が明日行われる(9月28日、in岩手。出演者 : 椎名唯華&でびでび・でびる・鈴谷アキ)けれど、町会議は来るファン層がそれぞれ違っていて面白いよね」という話から、自分の町会議の体験、一緒に島根に行った文野環さんの話をして、「そういえば、文野環さんに連絡をした」と転がっていく。

 文野環さんはにじさんじ二期生、つまり直近の後輩であり、にじさんじでも古参の一人であるわけだけれど、いつの間にやらすっかりレアキャラになってしまった。

 にじさんじにも「配信をしないライバー」というのは一定数おり、私はかれらを「レアキャラ」と呼んでいるが、レアキャラにもいくつかタイプがある。

 例えば、ギル様あたりは配信をしなくてもTwitterが動いているので元気なのは分かるが、そうではなく、半年以上Twitterさえ動いていない語部紡さんや、3ヶ月の完全な沈黙の後に「実は手術をしていた」と語り出す月見しずくさんYouTubeのようなタイプは、少し心配になる。

 文野環さんはだいたい1ヶ月に1回の頻度でTwitterを更新するが、配信は7月以来無い。少し心配する声が同僚である物述有栖さんから上がったりもしていて、配信以前に安否が心配されていた。

♥️♠️物述有栖♦️♣️JK証明週間☕💕 on Twitter: "出席して早退して準備して、のらジェットで寝たら一瞬で都会だったし、多分もう一回寝たら一瞬で山⛰ ところでのらジェットのオーナー文野環氏っていい飼い主見つかってちゃんと安全な場所で幸せに暮らせてるのかな🐟 って乗る度に思う✈ 野良猫に平和を…🐾 うしねじゅに愛を…🐈"

 

 一応この物述さんのツイートには文野さんからリプライが送られており、とりあえずTwitterを動かせる程度には元気らしいということは言われていたが、依然として配信は無い。

 そんな中での、でろーんの文野環生存報告は、それなりに注目が集まった。切り抜きもあるので気軽に観られるよ。

 さて、肝心の内容だが、これがまた文野環らしくて良かった。

最近ねー、またあのたまちゃんとも連絡をとって、「元気?」みたいな連絡をとったら、「でろーんさん心配してくれるなんて、やっぱり私のこと好きなんですね」っていうね、相変わらずなお返事が来てて、それはもう終わったんだけど。

 どうも機材関係に悩んでいて(配信でも音質などを度々指摘されており、本人も配信で話すレベルで悩んでいるらしかった)、それで上手くいっていないようだ。前途多難ではあるが、一先ず無事を確認できるのは良いこと。

 久しぶりにたまちゃんの話題になったからか、彼女の話を更に続ける。二ヶ月配信をしていないライバーの、しかも自分も忙しい時期に、ちゃんと咄嗟に文野環の魅力についての話がすっと出てくるあたりが、流石でろーんという感じ。しかもこれがまた、相変わらず具体的で的確な指摘だった。

たまちゃんの配信も、独特やと思うわ。あー…の配信、なんかさ、なんだろう、「枠にとらわれてなさすぎ」?

「枠にとらわれない」とかなんかそういう言葉あるけどさ、なんか文野環さんに至っては、もうなんかとらわれるとらわれない以前の問題で、なんか、「そもそも枠とはなにか」みたいな。

 「枠を壊す」じゃなくて、「枠が無い」。文野環は、枠があるということを意識させない。

 これは非常に重要な違いだと思うし、私も、いい表現だなあ……と思う。さすでろ。

 

 ふつう、私(たち?)は枠の中に生きていて、それはにじさんじのライバーとて一緒だ。さまざまな「枠」がある。「Vtuberたるもの…」「にじさんじの一員として…」「女の子だから…」「雑談で話せることは…」などなど、知らず知らずのうちに、取り込まれ、また、自分から取り込まれる。その名称も様々だ。「お約束」、「伝統芸能」、「に じ さ ん じ(※だいたいクソデカフォント)」、「ルール」、「枷」、「縛り」。

 枠があるから面倒なこともあるし、逆にできることもある。枠って面倒なことばかり?そうでもない。

 「おいおいお前、小学生が深夜に配信できるわけないだろwww」とか「バーチャル東京ってなんだよ、地図出せよwww」などの質問が、合ってるとか間違ってるとかではなく、単純に「くだらない」ものだとして受け入れられるのも、枠があるおかげだ。もっとも、こういうものを更に打ち返して、つまり枠を壊そうとする攻撃を更に壊して、「世間の11歳とは格が違うから大丈夫」や「バーチャルとかじゃなくて東京住んでるよ」という名言(迷言?)も生まれたりするので、単に無視するわけでもない。枠はそのまま使ったり、もしくは自分で壊すことで、面白さを生み出してくれる。

 委員長(をはじめとする一連のロールプレイ)もそう。「清楚な学級委員長」というはじめの「枠」があったらこそ、それを壊していく過程が面白い。もはや「枠を壊す」までがにじさんじである、とまで言われるほどだ。新人がいつ化けの皮が剥がれるかを見定めるという楽しみ方さえある。f:id:kyakunon20:20191004002354j:image

 しかし、「枠を壊す」というのが、新たな「枠」になる、ということも往々にしてある。これはポジティブな意味もあるし、もしかするとネガティブな意味もあるかもしれない。もはや清楚(普通の意味)が清楚(にじさんじ)になったって、それだけでは別に面白くはない。また、枠を壊すことばかりに躍起になって尖りすぎて、視聴者が理解できず、引くことだってあるだろう。

 枠との付き合いは色々と大変で、プラットフォームは仮に変わるとしても、バーチャルという大きな枠のうちで動いていくことは、たぶん、変わらないのだ。

 

 さて、それで文野環さんの話だが、彼女はこの枠が限りなく小さい。でろーんの言葉遣いを真似すれば、枠が無い。

 それをちゃんと説明するのは難しいのだけれど、でろーんが配信で言及していた「マックのクーポン」はもうアーカイブが残っていない(これはミラティブの配信なのだが、ミラティブは2週間しかアーカイブが残らない)から、別の動画や配信アーカイブを紹介してみたい。

 文野環さんの良さがよく伝わる配信はどれだろう?私がおすすめしたいのは、やはりポテチコラボである。でろーんも出てるし。


ポテチコラボ!〜文野環を添えて〜

 

 少し背景を説明してみよう。文章が面倒であれば,こちらを観てもらえればよい。


【YouTuber史上初!】大量の〇〇発生で家が壊れる!?その内容とは・・・

 

 事の発端は,SNSを利用したカルビーのキャンペーンに応募したら,ポテトチップスが2434袋当たった!という事件である。1日1袋食べても7年ほどかかるが,ポテトチップスの賞味期限は4か月。1日21袋食べればよいが,もちろんそんなことをすれば死ぬ。

 処理に困って…というわけではないが,たくさん残ったポテトチップスの利用先として,大型コラボが行われたわけである。

 主催・司会はなんと文野環自身。たまちゃんを除く参加者は,月ノ美兎,樋口楓,える,剣持刀也,伏見ガク,森中花咲,家長むぎ,夕陽リリ,ドーラ,シスター・クレア,成瀬鳴,神田笑一。このメンバーのうちで司会者といえば剣持刀也なので,かなりの挑戦だ。

 お品書きは次の通り。

 「○○っぽく食べようコーナー」

 ポテトチップスを,引いたお題に書かれている人物のように食べるコーナー。

 「渾身のものまねメドレー」

 2チームに分かれて,課題曲を歌うコーナー。ただし歌う際には自分の得意なものまねをしなくてはならない。

 「Calbeeクイズ」

 タイトルの通り,カルビーに関するクイズ。

 クイズはともかく,ものまね系のコーナーが2つあるというのはなかなか厳しい。というのも,別にみんながみんなものまねができるわけではないからである。ものまねには,トークとは違う準備が必要とされる。もちろん事前に準備をしてきてはいるはずだが,そつなくこなせる人はともかく,そうでない人のものはなかなか見ていて厳しい。たまちゃんの司会が微妙(いつものたまちゃんだ!)ということもあり,全体的にぎくしゃくしている。

 バラエティーとしての面白さは正直微妙(私が大型コラボがあまり好きでないというのもあるが。。。)だということは,ある意味いつもの「枠」がぐらぐらと揺れるということでもある。さらに言えば,文野環さんは司会もしているから,その仕事(「枠」)もしなくてはならない。そんななかで文野環さんが発したとある言葉が,私の耳にずっと残っている。

 

 事件は,ふたつめのコーナーで起こった。

 「得意なものまねを」ということで,各自がいろいろなものを用意していた。事前に文野環さんが「ちゃんとやってね」とコーナー説明したこともあってかしらないが,けっこういいものが揃っていた。少なくとも「置きにいった」ものはなかったように思う。みな挑戦しようとしていた。頑張っていた。

 そんななかで家長むぎさんがやったものまねが「親フラする萌え声生主」であった。

 たぶん,みんな思ったはずだ。「いつものむぎむぎじゃん…」じっさい,いつもの家長むぎさんでした。

 歌唱の後にインタビューをしていった文野環さんの様子を,文字起こししてみよう。個人的には切り抜かれてほしい名場面である(ちなみに42:32頃から)。背景を一応説明しておくと,伏見ガクさんが「間違っている緑川光さん」のものまねをしていた。

文野環「緑川さんは,みんな,まちがっていたかな?」

森中花咲「え,ちょっと,聞かせてほしいな~」 

える「まちがって~」

伏見ガク(ものまねで)「なんでもう1回やらなきゃいけないんだ」

一同(笑い)

文野環「まあ,これくらいでいいかな,インタビュー…あ,でもみんなに聞く? …じゃあむぎちゃんはさー」

家長むぎ「うん~」

文野環「なんでいつもそんなことしかできないの?」

一同(爆笑とフォロー)

家長むぎ「ちょっと,あとで…相談しような…あとでしような…」

文野環「んー考えとくよーはーい」

家長むぎ「こっちみてないけど… しってるよ?むぎに勝てないの?」

文野環「…しりません」

………

 2度目の笑いとフォロー,そして返答ができない家長むぎさんが非常に面白かった。

 しかし,ここで私が言いたいのは,「文野環は笑いに厳しい」ということではない。むしろその次に,文野環さんがイジった後のむぎむぎの反撃に注目したい。

 「しってるよ?むぎに勝てないの?」

 家長さんの反撃に対して今度は文野環さんが反撃できないというのが面白い。

 むぎむぎは「む虐」という言葉がファンから出てくるくらい,基本的にはいじられキャラである。かれをいじるムーブ自体はそれほど珍しくない。最近は家長さんの反撃も目立つようになったが,この頃はたぶんまだまだいじられるばかりだったと思う。そのむぎむぎがいじることが唯一できるのが文野環だった。

 少し昔の話をするが,無印2期生の関係性として好きなのが,家長むぎ―文野環—夕陽リリという関係性だった。若干重い愛を夕陽さんに対して向ける家長さんと,それを軽くあしらう夕陽さんという関係性は,今も有名な組み合わせで,最近は初の歌ってみたコラボをしたほど。家長さんはわりと誰にでも甘々なムーブをかける(オブラート)のだが,いわば本命が夕陽さんであるということは視聴者も含めて皆知っていて,かれのいう「好き」は,そのぶん差し引かれて理解されていた。そんな放言をかつてベタに受け取ったライバーがいて,それが文野環さんだった。文野さんは逆に「みんな私のこと好きなんでしょ?私はそうでもないけど」という小悪魔(というか猫?)系であるにも関わらず,家長さんには自分から執着しているのが明らかだった。それこそ空気を読まない程に。

 例えばポテチコラボの終盤。「負けたチームの罰ゲーム」と称して,家長さんに「私のことを1番好きだよって言ってもらいまーす」と言い始める。他のライバーには何もなく,委員長からは「私怨だろ」というツッコミさえ聞かれる。剣持さんの「みんなを巻き込んだ処刑だろ」は言いえて妙だと思う。家長さん本人からは「何の拗らせ具合をこっちに持ってきてるんだよ!」完璧。

 家長さんと文野さんの絡みの時は夕陽さんがだいたい静か――ただ振られるとスマートに返す――なのも面白い。ちなみに夕陽さんと文野さんは「たまき」「リリ」と呼び合う。マジで少女漫画の世界だ。

 

 文野さんのツッコミは,お笑いや芸事を愛するものとしての想いと家長さんへの想いとが混じり合っている。そうでなければ,「しってるよ?」という,それだけ取り上げてみればよく意味が分からない,ハイコンテクストな返答を家長さんがする必要がない。むぎたま(リリ)のやりとりは,分かりやすいものではないが,それにも関わらず,周囲のライバーや視聴者を納得させる力を持っている。

 単なる無軌道は,そもそも理解することができない。しかし,意味のある急カーブは,時にみるものをぎょっとさせる。ふつう,そうやって曲がる角度は,努力によって,「枠」に1度ハマることで,手に入れられる。委員長がそうであるように。

 しかし文野環は,文野環の空気を読まない絡みは,昔からずっと,「枠」が揺れたときでさえも,そこにあり続ける。かれは何も変わらない。

200円のクザーヌス

 『素晴らしき日々』においてニコラス・クザーヌスの名前が出てくるのはおそらく2箇所で、そのいずれもが高島ざくろさんに関わる話であることから……というわけでは必ずしもないのですが、ニコラス・クザーヌスの本を近頃は少し探していました。

 

 今日はちょうど遠出していて時間が少しあったので、訪れたことのない小さな古本屋に行ったところ、なんと岩波文庫『神を観ることについて』を発見。見つけられなかったけれど、『学識ある無知について』もあったかもしれないですね。それくらいい感じに本が積み上がっている古本屋でした。

 ただひとつ問題があって、私の財布には250円しかない。田舎の小学生かな?ちなみに『神を観ることについて』は現在では絶版で、Amazonだと1000円くらい(定価は税抜き660円)。

 その店の商品は値札がついていたりいなかったりするので、更に困りました。取り敢えず値段を探す。

 「状態が良いので、300円は切らないだろうなあ」と思っていたら、「二〇〇円」との手書きの文字が見えました。ラッキー!格安かつ予算内でバッチリ。

 そう思ってレジにGO。レジ番は店主らしきジャージのおじさんと、朗らかなご婦人(たぶん店主のお母様?)がおふたりでしたが、私が差し出した本に対して「あ、これ値段ついてないんだ」との言葉が第一声。

 え?と焦る私。ついてるじゃん、と思って、指差して改めて見返すと、そこには「二〇〇四年」との文字が。「四」が潰れて「円」に見えたわけですね。

 

 まずい。これはまずい。予算オーバーもまずいが、何より例えば「500円ですね」と言われた時に、「あの…すみません…そんなに持ってなくて…」というのは、マジでやばい。2000円が5000円じゃなくて、200円が500円ですよ。もうどう考えたって、最初から何も買う気がなく冷やかしに来てるわけじゃないですか。や、そこそこ歳食った身なりをしたペンギンが200円1冊買うっていうのもセコいですが。

 

 緊張する私。なんて言えばお店の方の気分を損ねないだろうと、頭をぐるぐると回転させます。

 「200円でいいですよ

 え?

 何気なく値段が決められてしまい、動揺した私は、ありがとうございますと言うのが精一杯でした。

 「この本、キリスト教に詳しい方のものでしてね」

 淡々と語られる言葉からは、何処か温かさを感じられました。でも速い動悸が続いている私は、「そ、そうなんですね」と言うばかり。袋を受け取ると、急いでお店を出ました。

 

 帰りのバスのなかで『神を観ることについて』のページを捲りながら、お店の方の言葉を反芻していました。あのあと、何かを話してくださるつもりだったのだろうか。聞きたかったな。どういう方がクザーヌスを読まれたんだろう。どういう思いでこれをお店に託されたのだろう。

 もし私が沢山お金を持っていて、他にもいっぱい買ったり、少なくとも200円か500円かで悩むようなペンギンでなければ、私の方から「教えてください」と訊けたかもしれない。

 

 次にお邪魔する時には、お金をたくさん稼いでいたらいいな。クザーヌスは面白いです。訳者解説が中世らしからぬ野心溢れる感じで好印象。

私のばあい ーー久遠千歳のファンはEMAに何を思うのか

 以前久遠千歳さんについて久遠千歳についての感情 - kyakunon20’s blogという記事と魔女の痕跡 ーー久遠千歳のレゾンデートルについての一考察ーー - kyakunon20’s blogという記事を書きました。後出しで恐縮ですが、2つ目の方で「魔女の再来はあるか」という話をしている辺りでなんとなく察して頂けていたらいいなという感じでふわふわしていたら、なんとなんと、という感じです。

 

 まあ当然、色々なことがあります。色々な反応がありましたが、私は一先ず「EMAにかける言葉はおかえりではない」という言葉については全く同意します。かれにおかえりなんて言うべきではない。でも、はじめましてと言う「必要」も無いと思います。EMAさんもその手の語彙は慎重に避けているのかなという印象です。かれにかけるべき言葉は「いい声ですね」「いい歌ですね」それだけでよい。全く正しいと思います。

 というわけで、以下で語るような「いい歌ですね」以外に私が持つ感想は、かれに語る言葉では全く無いのであり、単にオタクの二次創作です。今更この記事ひとつが御本人に見られてどうこうは特に無いと思いますが、私からは積極的に見せていこうという気は無い。そういうテンションで行こうと思います。たぶん世界はきっとそれくらいの余裕はあるはずなので。

 

 

 さて、改めて「魔女の痕跡」の話をさせて頂ければと思います。あ、わざわざ長いのを読んで頂く必要はありません。短くまとめてみます。

 私があれを書いた背景には、「呪いを受け入れて前向きに生きるようになった」という単なる誤解のストーリーへの不信、「久遠千歳は徳を積んだから呪いが解けた。呪いが解けたから卒業は順当」という「綺麗事」のストーリーへの違和感をそれぞれ覚えたという事情があります。たぶん誰がどう見たって配信がだるくなって(これは本人も最後の配信で言ってます)、呪いが解けたことにして卒業するというのは明らかなのに、それを人間的な成長として受け止めるってなんかヤダなあと思ったのでした。というか辻褄が合わなさすぎるなと感じました。

 でも、そこで「単に嫌になったんでしょ、俺はわかってるからw」みたいに言うことは、そんなことをするのはただの愚か者だということくらいは分かります。だって、そんなことはみんな知っているのだから。知った上で、せめて笑って送り出そうとしているのだから。でも繕うならもっと上手にできないだろうか。

 それで、なるべくやや意地悪にというか、久遠千歳という設定を徹頭徹尾活かして、久遠千歳の内在的な論理の元で「魔女の痕跡」を書きました。

 「何故そこまでRPに拘るのか分からない」というコメントを頂いたりもしましたが、やっぱりなんというか「久遠千歳」の話を「久遠千歳」の内でちゃんとやりたかったという一言に尽きるのではないかと思います。私の個人的な関心として「バーチャルYouTuberが単なる生主や歌い手でなくてバーチャルYouTuberである意味ってなんなんだろう」というのがあって、長いので以下略ですが、その話とも繋がっていました。

 

 私は結局、非常に悪趣味な文章を書きました。以下のような感じです。

 要するに、久遠千歳とは魔女の呪いである。ただ、その「呪い」は、かれがVtuberである、つまり久遠千歳である前にも持っていたものだった。久遠千歳をつくる「魂」は、それが魅力あるものとして私(たち)の前に現れるときには、常に呪いをもって現れる。

 結論は次のふたつです。

 いち、だから私は、「呪いが解けてどこかにいる久遠千歳」に関心が無い。それが「いる」のかさえよく分からない。

 に、そして私は、久遠千歳の「魂」は、rei siroseという姿を取ろうが、新たな姿をとろうが、いつも「呪い」をかけられて現れてくる。久遠千歳の意義とは、rei siroseや久遠千歳が、その非社会性にも関わらず醸し出してしまう「怪しい魅力」を、「魔女」及び「呪い」という形で示した点にある。

 

 はてさて、しかし現実は、オタクの妄想を軽く飛び越えていきました。思ったより早く、しかも劇的に現れたEMAさんは、鮮やかにも次のように記したのです。

EMA on Twitter: "DUSTCELLのEMAとして 死ぬまで此処で歌い続けたいと思います。改めてこれからよろしくお願い致します。#KAMITSUBAKI_STUDIO"

 繰り返し指摘されるように「死ぬまで」が久遠千歳であることを受けての語りであることはおそらく明らかでしょう。そしてこれを受けた私は、選択を余儀なくされます。

 どういうことでしょうか。予想と違い、「呪い」が解けたうえで「魂」は姿をとって現れたかもしれない、ということです。

 

 いま思うと、最後の個人配信で言っていた「6月頃に呪いが解けて、それをどのタイミングで言うか迷っていた」という、そこだけ何故かリアリティのある話は、神椿からオファーが来たか来て受け入れたかどちらかなんだろうなあ、という思いです。

【2019/10/21修正】神椿及びEMAさんから声明が出ました。記事の本筋とはあまり関係がありませんが、神椿からのオファーというよりは魂からの志望(売り込み?)だそうです。「オファー」という言葉だと語弊がありそうなので修正しておきます。繰り返しますが本論にはあまり関係がありません。

 つまり私の「考察(笑)」は少しは合っていたのかもしれません。魂にとって久遠千歳であるということは「呪い」をもったままでいることと同義である。「呪い」を捨てるとき、かれは久遠千歳ではいられなかった。

 問題はその次です。呪いが解かれて、死ぬことのできるようになった「魂」は、私たちの前から、また呪いが施されるまでの間消えておくのではなく、EMAとして現れてしまった。

 上述したことを繰り返しておけば、魂がいつまで経っても「呪い」を抱えたままでいるであろうと述べたことは、私にとって、これから'性懲りも無く'転生するかもしれない魂が、久遠千歳として見られてしまうことを避けられない、ていうか俺はそう見るぞ!(書くぞ!ではない)と宣言する、いわば私の久遠千歳に対する想いでした。

 だから私は、こんど魂が現れる時は、「ああ、また魔女が現れて、呪いがかけられたんだね」と言おうと思っていました(言うまでもなくコメント荒らすとかそういう話ではなく、自分の態度的なあれです)。

 ところが、今度の魂ははっきりと述べたのです。「死ぬまで」やるのだと、そう述べたのです。

 私は今、悩んでいます。この言葉を信じればいいのか、かれもまた「呪い」として理解すればいいのか、悩んでいます。

 冒頭部で私は「この記事はかれにかける言葉ではない」と述べました。そこをまずはご理解頂ければと思います。

 そしてその上で、私はどうしたらいいのでしょう。

 一先ずは信じたいと思っています。何も考えずに古い図式に当てはめるのは、真摯でもなければ「面白く」もありません。

 

 でも、最終的にEMAが見せてくれる境地は何なのだろう、そんなものはあるのだろうか、これもまた考えたいなあとも思っています。

神羅万象チョコの話

 チョコ、消えるのか…?


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 小学生の頃、『神羅万象チョコ』というおまけ付きのウエハースチョコが好きだった。ウエハースチョコになんてことはないプラスチックのカードが1枚おまけがついて100円とかそこら。メジャーなものに例えるならばビックリマンチョコだと思う。そのへん詳しくないので分からないけれど。

 ビックリマンチョコと違うのは、かなりコテコテに「オタク趣味」だということ。コロコロコミックに取り上げられるくらいなので、ターゲットは小学生なはずだし、メインはちゃんと(?)カッコイイ戦士なのだけれど、学園物の系譜とか取り入れたりして、結構オタクにも優しかった。普通に水着のカードもあったしでけー胸のおねーちゃんも沢山いた。

 私が初めてこれに出会ったのは、小学生の本当に1年生とかそれくらいじゃないだろうか。今年で神羅万象チョコは15周年、そして15周年で完結するのだけれど、たぶんその1番最初の弾を買った。で、1番最初に当たったカードが「飛天王 アレックス」という、主人公格のひとりだった。

 私が神羅万象チョコにハマっていたのは小学生〜中学生の頃で、恥ずかしながら第5章くらいから若干怪しく、なので全然ガチとかではない「子供の頃にハマったもの」(これは本当に謙遜ではない)に過ぎないのだが、それでも小学生の頃はずっと好きで、初代の主人公とその子孫の話だった1-3章については、そのカタログである『完璧大全』という本も買っていた。まあ、それで終わってしまったわけなのだが。

 

 その後もちょこちょこ買っていたりはした(チョコだけに!)が、ここ5年ほどはほぼ情報すら手に入れていなかった。今回の件も別に発売を待ちわびていたとかではなくて普通にスーパーにあったのを見て「おや」と思ったのである。ちなみにこのキャラクターは「メビウス」と「バランシール」だと思う。これもとても懐かしいキャラクター。

 

 神羅万象チョコのカードは基本的に表がイラスト、裏が補足情報という、完全なコレクションカードなのだが、1枚のカードの情報量は決して多くない。ストーリーはナンバリングされてカードごとにバラバラにされているし、そのキャラクター自身の言葉(要するに台詞)はひとことしか入っていない。なのでキャラクターの全体像なるものはどうしても掴みにくく、長寿の人気キャラクターならともかく、単発で1枚しかなかったりすると、「お前だれ?」という感じ。世界観も結構手が込んでいるが、これについても設定資料集とか読まないとよく分からない。

 

 先程『完璧大全』という名前をあげたけれど、これはカードカタログであると同時に神羅万象チョコ初の設定資料集でもあり、私の小中学生時代の愛読書だった。コロコロコミック関係だとデュエルマスターズの各弾のカードカタログが800円とかだった時に、色々要素入れたとはいえ3000円である。小学生には高い。やっぱり年齢層高めだったんじゃないかなあと思う。

 今手元にない(実家に置いてある)ので完全に記憶を探って書いているが、思い出して「そういえば」となっているのが小説のコーナーだ。先程カードには情報量が少ないと述べたが、それだけに『完璧大全』に載っていた小説はとても楽しく読んだ。今内容覚えているのでいえば、「シズク(第2章の主人公格のひとりで紅一点)の視点からリュウガ(同じく主人公格というかメイン主人公)がどう見えるかの話」とか「レッカ(男の子の火の妖精)がクラウディア(富豪の若い娘)に淡い恋心を抱く話」とか「ベリアール(めちゃ強の魔王)にアルフィーネ(魔界のいいとこのお嬢様)が許嫁にされた話」とかいややっぱりコロコロコミック的には年齢層高くない!?!?!?(15年目の気づき)

 15年目にして衝撃的な事実に気づいてしまったが、これを見ればわかるように、結構大人(?)向けの要素もしっかり入っていた。小説ともなるとそれなりの言葉が必要とされるので、「あ、このキャラはこういう喋り方をするんだ」とか「え、このキャラってこういう振る舞いをしちゃうのね」とか知る機会になった。レッカとクラウディアなんて、オリジナルのカードではノーマルレアリティなんですよね。そこに結構エモい話が絡んできたりするのを知ってしまうと、一気に物語の奥深さが感じられる。その奥深さを私は十分に知らなかったけど、いま記憶を辿るだけで「あ……いいかも」って思えるのはやっぱりBANDAIクオリティなんだなって。個人的にはアルフィーネの話が好きなんですよね。もともとベリアールは魔界三巨頭っていう魔界のめちゃ強な3人組のひとりとして第1章に初登場したんですけど、そのときの組み合わせが、魔界のプリンスことベリアールと、The魔物って感じの知将アリオク、そしてどエロいねーちゃんのアスタロットという感じなんです。

 私はアスタロットで性癖が破壊されたんですが(小学生が見る露出度じゃねえだろ)、男2女1とはいえ、アリオクはなんというか魔物寄りの見た目をしていたので、自然にベリアールとアスタロットがくっつくんだろうなと思っていたんですね。

 それが第1章の1000年後(魔界の人はあまり歳とりません)に現れた時にはどうなっていたかというと、なんかめちゃくちゃフツーな感じの女の子が「許嫁です」っていって出てきたのでビックリですよ。アルフィーネもびっくりしてた。ベリアールも戸惑ってた。まあ要するにアルフィーネの義父(めちゃくちゃ偉い)がアルフィーネの幸せを思って半ば強引に進めた話だったんですが。

 もしや政略結婚か、と思われたりもしたふたりの婚姻関係ですが、小説ではベリアールが意外と不器用だけどアルフィーネのことをちやんと思っていることが描写されたりして、アルフィーネも最終的には「この人でよかった」なんて思うわけですが(なんて人間くさい恋愛模様…)、爽やかな読後感の後に首を捻るわけです、アスタロットどこいった?と。小説の中で出てこなかったんですよね〜アスタロット。

 まあベリアールとアスタロットは別にそういう仲じゃなかったっていう話に尽きるのかな…なんてその時はその時で思ったんですけど、またn年後、第何章か忘れましたが、アスタロット、ベリアールの嫁として可愛い娘産んでました。え〜〜〜……

 結論からいえば魔界は一夫多妻制で、ベリアールは結局アルフィーネとアスタロットの両方を妻に迎え、ふたりとも子どもを産み、それぞれ男の子と女の子だったのでなんかこうイチャイチャ仲良いみたいなそういうオタクっぽいあれになっていったわけですが、これはもうびっくりですよ。

 え、お前、ベリアール、そんなにお前は器用なやつだったんか???アルフィーネ、お前はそれで良かったんか?アスタロット、お前は何を考えていたんだ???とまあ、たぶん物語的には別に変ないざこざなく落としているので分からないところではありますが、この歳になるとそのへんが気になりますね。

 

 とまあ、神羅万象チョコの超初期の個々のエピソードは色々好きというか、今でもほぼ空で思い出せるので、その程度には好きだったんだなあという感じです。6章ぐらいからほぼ知りませんが……………その程度です。

 オタクっぽいとかもいいましたが、恋愛とかセックスとか種族間とか戦争とか死とか、そういう話から逃げずにオラッてこっちに出してきて、でもオタクと戦うんじゃなくてちゃんと小学生に売れて15年続いたっていうのは凄いというか途方もないことなんだろうと思います。私も久しぶりに集めたくなっちゃったなあ。「回顧録」という要するに総集編が若干高め(150円を少し超える)で発売してるので、じわじわ買いたいと思います。本も欲しいな。これ買いたい。

 

神羅万象チョコ 超完璧大全

神羅万象チョコ 超完璧大全

 

 

アイマスからVtuberへ 「好き」とかどうでもいい

 自分語りです。

 私がこのような形で二次元のオタクに突っ込むようになったきっかけはたぶん『アイドルマスターシンデレラガールズ』です。

 もともとあまりこれといった特定のジャンルが好きということはなく、強いて言うならラノベ系が好きかなーみたいな、そういうゆるゆるのオタクでした。初めて買ったCDはClariSの2ndアルバム。1周まわって可愛くないですか?可愛くないですね。

 

 デレマスといっても別に古参ではなく、普通にアニメから入ったわけですが、正直未だに最も好きなアニメのひとつです。再放送ある度に観てしまう。アニメのシンデレラは本当に細やかなストーリーで、私はあれが「真の」本田未央さんなのかどうかは分かりませんが、シンデレラをモチーフとした話としてよくできていると思いましたし、終盤の怒涛の島村卯月さんは本当に無二だなと感じました。

 私がアイマスにハマったのはμ'sの最盛期とも重なっていて、まあいわゆる世代なのかなーと思わないでもないですが、そんな感じで順調に二次ドルに染まっていきました。そんな感じで、アイマスラブライブに捧げたーーといっても矮小なオタクのレベルでですがーーティーンエイジャー時代でした。

 

 転機は大晦日にやっていた765の方のアイマスの劇場版。「輝きの向こう側へ」ってやつですね。あれ、すごくよかったんですよ(唐突な宣言)。

 それまでの劇中での苦しい流れ全てを吐き出し尽くすようなM@STERPIECEは、年末テンションということもあって感激の極みでした(受験生テンションもあったかと思います)。でも同時に凄く冷静な計算がそこで回って、「これ、アイマスを最初からちゃんと追っている人が映画館で観たら言葉にならないくらいめちゃくちゃ感動するのでは?」と感じました。それってどんなのだろう。私はその感動が欲しくなりました。

 コンテンツを1から追って、そのエモさの最高潮で泣きたい………それが私の二次元への関心の主に置かれるようになりました。

 

 

 で、ハマったのがナナシスです。ナナシスは今も好きだし感情が凄くまだ整理できていないのですが、一言で事実だけいうと「エモさの最高潮であったはずの場所で泣けなかった」ということになります。2年くらいナナシス漬けで生活したのですが(これは本当にもう「捧げた」と自信をもって言える)、結局泣けなかった。周囲がみんな泣いているところで絶望して立ち尽くしていた。ナナシスについては幾つか書いたはずなので適当に漁ってください。

 

 複雑な関心の中で、私は問題を再び捉え直します。「俺はなんで泣けなかったんだろう」→「それは好きじゃなかったからだ」→「じゃあどうすれば好きが手に入るんだろう」みたいな感じで。私の「好き」を巡るネットサーフィンの始まりです。

 そこそこ色んなものを触りました。ちょうど「進路について考えよう」みたいな人生のフェーズに入ったこともあり、単なる趣味の問題が人生の問題に取り違えられました。こうなるとおおよそ生活が終わります。私の生活は終わってしまいました………

 冗談はさておき、このまま「好き」とかどうとかいっても生きていけないなと思った私は、「なんでもいいから態度を決めて落ち着きたい」と思うようになりました。そんなとき私の尊敬すべき知人が「なろう小説」の魅力を語ってくれました。

 曰く、なろう小説は膨大な書き手を保有し、日々進化し続けている。昨日の外野から見た批判など、既に過去の遺物でしかないほどに。私はそれをクジラのように全て呑み込む。するとごく稀に当たりがくる。99が駄目でも、残りの1が当たりであれば次に進める。

 イメージとしては、カイジの「沼」みたいなものかなと思いました。とてつもない量は質を兼ねる。

 残念ながらなろう小説は見づらいのでパスしてしまいましたが、玉石混交してとにかくめちゃくちゃな量が毎日ドカドカ降ってくるコンテンツはいいなと思うようになりました。「ひとつのものが好き」とかじゃなくて、「全体が好き」。いわばそれ以前とは対局の位置にある態度に私が惹かれるようになったのは、「かけがえのない唯一のもの」を自分が持てないと思うようになったからだと思います。唯一が駄目なら無限だぜ、とばかりに、私はVtuberを切り抜きから配信アーカイブから動画から観続けました。

 流行りは二週間もすれば終わり、わけわかんない天才が現れては消え、ロールプレイが滅び、新しいジャンルが設立され、また壊される。おじさんたちはどんどん可愛くなる一方で可愛くないおじさんが怒涛のように増え、炎上チキンレースは参加者が燃えることで終焉する。全てを何故か生き残る人が、面白いのかよく分からないけど一定数いて、なんかかれらを観てしまう。

 幸福だ、と思いました。

 

 そういうわけで、私に特定のVtuberの「推し」はたぶんいません。昔のように、「その人に関する全てのものを手に入れる」という意味での推しは今はいません。代わりに、なんだか凄く楽しくなりました。たぶん、私は誰が引退しようが泣かないでしょう。「お疲れ様でした」で終わるでしょう。そしてそれでいいと思ってしまうのでしょう。これは二次ドルの時には思わなかった。キョーコやレナの声優さんの交代の時はもう全てが終わりはしないまでも全てが変わったと感じました。これがいいのかどうか、私にはよく分かりません。

 

 次は何処に行くのかなあと、Vtuberの流れに呑まれ続けてだんだん疲れてきたのでそう思います。エハラミオリさんが表舞台からもし完全に消えるようなことがあれば、そのとき私はVtuberを追うのをやめるような気がします。私はかれの音楽を聴き、その際に想起される思い出としてVtuberを覚えているような気がします。

 でも次はどこに行くのだろう。唯一もダメ、無限もダメ、となると…?よく分からない。もしかしたらまたひとつのものをみるようにするのかも。……俺ガイル?それもあるかもしれません。。。わかりませんね。。。。。

MZMを''大真面目に''紹介するーー考えたっていいんだぜ 自分に言い聞かせ

 「紹介する」なんてエラソーなこと書きましたが、実質のところこれは「MZMを語る」記事であり、それを「紹介する」としたのは単に日和っているからです。それくらいMZMーーMonsterZ MATE、モンスターズメイトーーは、かれらを語ろうとするものに対して立ち塞がる。ただそれは全然不快な意味ではなくて、「Vtuber語るならちゃんといろいろ知ったうえで書けよ」という自律を要求してくるということです。

 よく分からないと思うので具体的にいうと、MZMは諸々の''事実''に関する情報をこちらに大量に提供してくれます。

 元来Vtuberは様々な情報を視聴者に隠すわけですが、それは我々に時に安易な独断をさせてしまう。Vtuberの「真意」なんて分かるはずもないのに、ろくに考えもせずに言ってしまう。その非対称性は良くも悪くもVtuberの根元に近い部分にあるわけですが、MZMはこれを壊していく。片っ端から自分の手の内をバラしていく。こんなことも言うの、と驚かされながらも、それでも次に出てくる動画はやっぱり面白い。常に「解説」の次を飛び越えた動画を提供し続ける。となれば、私(たち?)ファンがいったいなにを語れるというのでしょう?YouTubeが推しについての曲だったなんて!てっきり失恋の歌だと思っていました。

 

 突拍子も無いこれら全ての「解説」を踏まえた上で、しかも視聴者目線でしか語れないことを語る。それはとっても難しい!

 でも御託はこれくらいにして、実際にMZMによるMZMのためのMZMの解説の例を具体的にあげてみましょう。やっぱりMZMは面白くて、でも登録者数が一桁足りないので、仮に私の文章が単なる既存の情報の再生産だとしても、何か意味はあると思うのです。

 

 私がこの記事で紹介するのは、中の人と魂に関するコーサカさんの話です。苦手な人はブラバ推奨。なぜこれを語るのかというと、公式サイドから大っぴらに語られることはまず無いからです。Vtuberの魂の件はタブーに近く、わりとMZMはそれを壊そうとはとしてるものの積極的に周りを踏み潰していこうとはしない。だから、それなりに自由に語れるファンだからこそ、これをマジメに取り扱える。考えられる。後で詳しく述べますが、コーサカさんは「ガワとか魂とか〜」という考えですが、その裏には様々な思惑があります。御本人はあまり語りませんが、私個人としてはとても面白く思っている。し、活動にも反映されていると思っている。

 センシティブな問題だからこそ、大事に考えたい。この記事はそういう関心のもとで(も)書かれています。

 

 さて、MZMは大手のVtuberでは数少ない、中の人をオープンにしているVtuberです。コーサカさんの中の人は高坂はしやんさん、アンジョーさんの中の人はun:cさんです。共に非常にご高名な歌い手さんで、特にun:cさんのTwitterのフォロワー数は40.8万人。比較のためにいうと、輝夜月さんが44.2万人、ミライアカリさんが33.4万人であることを考えれば、その人気の高さは伺えます。Vtuberと歌い手って意外とファン層被らないんですね。。。かくいう私もMZMを知るまで全然知らなかったわけですが。

 ここで、もしMZMを知らずにこの記事を読まれる方がいれば(そんな人いないと思いますが… )、もしかすると「なーんだ、結局歌い手がVtuber荒らしに来ただけかよ」みたいなことを思われるかもしれません。が、全く違います。

 ふつう、リアルの人がバーチャルになる理由は語られません。Vtuberが「活動方針はこういうことをしたい〜」みたいなことを言うことはある(というか通例そう)一方で、なぜ顔出しではなくガワを被ってやってくるのかはほぼ勝たられないといっていい。

 でもそれは大手になればなるほど不思議になるもので、下手したら職歴に書けないかもしれない「Vtuber」という職業を、なぜ人気の配信者や実況者が選ぶに至ったのか。ふつう視聴者がその事情を知る場合は多くない(容姿などに触れる場合もあるため)のですが、やっぱり気になる。私はかつて御曹司こと卯月コウさんについてそういう記事を書きましたが、これもその試みの一種です。合ってるか違ってるかはしりませんが、御曹司はそういう話を暗に匂わせるVtuberの一人だと思います。

 さて、しかしMZM、というかコーサカさんはわりとあっさりとそれを語っています。詳しくはこのインタビュー記事をご覧下さい。

例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 – PANORA

 このインタビューはとても好きな記事で、「なぜあなたはVtuberに?」という私の疑問に端的に応えてくれる記事です。例えば冒頭。

……そこで疑問に思ったのが、すでに知名度があるクリエイターがVTuberをやる意義だ。アンジョーとコーサカは何を目指してプロジェクトを始めたのか。そしてリアルの存在がVTuberにとって「雑味」で邪魔にならないのか。収録に協力しているバルスを訪れて、コーサカこと高坂はしやんさんをインタビューしたところ、むしろ今までやれていなかったことができているという可能性を語っていただけた。

例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 – PANORAより。ただし一部省略した

 

 そもそも身も蓋もなく言ってしまえば、出すものが面白ければ、別に中の人を公開しようがしまいがどうでもいい、はずです。

 しかし私(たち?)はなかなかそうすっきりとは割り切れません。大手のVtuberの「前世」の多くが生主や実況者であることを私たちは知ってしまっているし、にじさんじが「経験者」を募集しているのも別に隠されていない、有名な話です。でもそこで、「じゃあ生主に行った方が効率的じゃん!とはならない。なぜ生主では駄目なのでしょうか。なぜガワが、いつまでたっても私たちには必要なのでしょうか。

 それを解き明かすことは私の手には余るので、ここではそういう二次元への屈折した思いを雑に「フェチ」とまとめてしまいますが、Vtuberのオタクとしては、このフェチに拘りたいところです。フェチを推しのVtuberと共有できるかどうかもわりと大事なところだと思います。

 そしてこのフェチからいえば、高坂はしやんさんが発する「VTuberは「中の人バレ」で炎上する流れがありますが、それがクソだるく感じられて。」という言葉は、いっけん許容しがたく思われます。ガワを食い破って中の人が出てくる「中の人バレ」はいわばVtuberにおけるタブーであり、キャラを生命あるものから単なる「絵」へと格下げしてしまう。それは断じて許されないのであり、だから炎上する。

 そのような過程を含む中の人バレに対して開き直ることは、Vtuberを理解していないのと同義だと言われてもしょうがない。

 

 しかしこのように拙速に判断してしまっては、はしやんさんが提示するガワ(=コーサカ)と魂(=高坂はしやん)の新しい関係を見過ごしてしまうことになります。

 かれがこの記事でモデルとして示すのは、武藤敬司グレート・ムタの関係です。「クソだるく感じられて。」の続きから引用します。

だから最初から高坂はしやんのアカウントのままで公開しました。それに、VTuberが好きな層って、サブカルも好きそうだから「プロレス」をちゃんとわかってくれるだろうと思っていました。アンジョーとコーサカのことは、自分も最低限は告知するけど、基本的には侵食しないようにしている。例えるなら、武藤敬司グレート・ムタの関係ですね。

………武藤敬司グレート・ムタって別人なことを知らない人が偶にいるじゃないですか。コーサカの動画を公開した直後はやっぱり「un:c」「はしやん」ってコメントで呼ばれていたんですけど、案の定、最近の動画のコメントは「アンジョー」「コーサカ」に変わってきています。俺らは一切、「アンジョーとコーサカって呼んでほしいな」とは言ってないんですけど、自然に変わっていったんです。

例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 – PANORAより。ただし一部省略した

 

 要するに、視聴者は中の人がいることなんて分かってるでしょ、ということだと思います。分かったうえで「ゴッコ遊び」に興じているんでしょ、だったらキャラクターの存在をベタに受け取っても無駄じゃないか、ということです。

 興味深いのは、この「ゴッコ遊び」が所謂「演技」とはまた微妙にずれているということです。インタビュアーは繰り返し「演技」についてはしやんさんに質問をしているわけですが、御本人は「演技しているつもりはなくて、全部素なんですけどね。演技できるようになりたいです。」と繰り返すばかり。

 ただこの辺は凄く微妙で、全部「素」かと思いきや、例えばMVで踊っているのは高坂はしやんさんではなくダンスアクターの方です。ここだけ見ても、複数の「魂」がひとつのガワを共有していることは分かります。ちなみにダンスアクターがいることを知ってまりなすコラボを観るとめちゃくちゃ面白い。まひまひの「踊れたんですね!」は高度なジョークだったわけです。Hacked Fruity Luvの「踊ったっていいんだぜ 自分に言い聞かせ」も同様に自虐ネタ。後者についてはふたつのFruity Luvと私のなにかーエハラミオリについて - kyakunon20’s blogで指摘しました。

 そしてもうひとつ、これも重要なのですが「路線」というキーワードです。

例えば、俺はお笑いが好きなんで、コント番組をやりたい夢があるけど、今はその路線には乗っていない。でも、VTuberのコーサカという形式ならできる。やりたいことがいっぱい浮かんでくるのに、現実ではできないことも多いんです。そんなやりたいことを、VTuberならやらせてもらえる。

例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 – PANORAより

 

 現MZMをひとことで紹介するなら「ロシアンシュークリームの人たち」というほどMZMといえばバラエティーの印象が個人的には強いのですが、なんと意外にも高坂はしやんの方ではそれは(限られた範囲でしか)できないとのこと。MZMのファンとしては非常に意外な感じがします。

 MZMのふたつの売りである音楽バラエティーの、その最も重要な部分に高坂はしやんの「素」ではない部分が噛んでくる。しかも私たちはそれを面白いものとして受け取る。人気歌い手による安易なバーチャルへの侵略かと思われたMZMは、実のところ、バーチャルでないと成り立たなかったコンテンツ展開であったわけです。もちろん、高坂はしやんとしての土台も不可欠だったとは思いますが、MZMは、リアルでできないことをバーチャルでやるという意味での、ある意味最も純粋なVtuberですらあるかもしれません

 ここから考えれば、高坂はしやんさんが考える「ガワと魂の関係」もよく分かるかと思います。つまり、かれにとってバーチャルつまりガワとは、リアルでは限界のある「やりたいこと」「面白いこと」を拡大して形にしてくれるものです。かれらがバーチャルで無くなる時があるとすれば、それはMZMが面白くなくなったときだと思います。逆にいえば、MZMとして面白くある限り、MZMは、高坂はしやんとは違う存在感を持ち続ける。私は、それが高坂はしやんさんがバーチャルに対してもつ責任であり、だからもしMZMに対して「二次元を冒涜している!」と批判したいなら、こうやって言うことをオススメします。

 

 「おもしろくない!

 

 そうすればきっと、いや、そういう前にきっと、MZMは面白くあり続けるだろうと私は思っていますが。

本を売った

 高校生の頃、私はロクでもないペンギンだった。自分を「陰キャラ」という型に嵌め、私の価値が分からない人間は愚かだと、ひとりで楽しんでいた。

 私の通っていた高校は、行事が自由参加制だった。

 もちろん正確には、全員強制参加なのだけれど、事実上は、来てほしい幹部と行きたくない「陰キャラ」の綱引きだった。私は1年生の頃は比較的参加していたが、2年、3年と学年が上がるにつれ、全く参加をしなくなっていた。

 参加をしないこと自体は、今でも別に悪いことだとは、特に思わない。参加をしない選択肢が無いなんて、そんなことは恐ろしいことだ。

 でも、私は、参加しなかった高校生の私自身のことを許せない。私は別に、行事に参加したくない理由は、特に無かったのだ。「そっちの方がかっこいいと思った」くらいである。ダークヒーローというか、あえてルールを破ることが格好いいと思っていた。

 なにより最悪なのは、そのくだらない価値意識を、周囲にひけらかしたことだ。何のことはない。「×××××君そんなことしたら駄目だよ」と、私は構ってほしかったのだ。

 

 私が通っていた高校は、父の通っていた高校でもあった。父は、幹部になるほど行事に打ち込んでいたという。私はそれを知っていながら、かれに、「行事なんて、くだらなくて参加する気が起きないね」と語っていた。

 父は咎めることもせず、「そういう考えもあるだろう」と聞き流してくれた。その裏で何を思っていたのかは、私は知ることがない。

 

 結局、私がこの幻想から醒めたのは、最大の行事ごとである、運動会が終わったその日だった。

 準備はことごとくサボったくせに、いけしゃあしゃあと当日は参加していた私は、普通にこれを楽しんでいた。

 運動会の全てのプログラムが終わったあとには、幹部たちからの挨拶がある。笑いと涙混じりに準備の苦労と、生徒間の協力を語るかれらの姿は、ある意味ひとつの山場である。私はそれを一生徒として、楽しく眺めていた。

 私の係のリーダーの、とある生徒が挨拶をしたのは、確か終盤だった。感動のフィナーレを迎えるその場所で、かれが語った最後の言葉を、私は今でも覚えている。

 「準備に来なかった人は、準備に来た人がそのぶんだけ働いていることを、忘れないでください。」

 空気がどうだったかは覚えていないが、別段凍ったようにも思われなかった。かれの悩みは、おそらく他の幹部も共有していたからだろう。

 私は誰かを傷つけていた。

 そのことに気がついたのは、その日が最初だった。その後に挽回する機会は、もはや存在しなかった。

 

 思えば、この時から似たようなことを繰り返している。取り返しのつかないことをして、「取り返しのつかないことをしてしまった!」と慌てることを繰り返してきた。

 

 昨日、本を売った。金が無いからである。漫画はほぼ売った。大好きな大好きな『聲の形』も売った。たぶん、値段がつかないもの以外は売った。私の場合、値段のつかない漫画が結構あるのだけれど。

 新書も多くは売った。宗像誠也とか兼子仁とか、もうお目にかかれないかもしれないものは流石に手元にあるけれど、苅谷剛彦とか今村仁司とか中山元とかは、あらかた手放した。

 部屋は少し綺麗になったが、そのぶんまた変な本が増えたりしたので、プラスマイナスゼロであるような感じがする。

 私はさきほど「金が無い」と述べたが、これは別に私が不幸だからではない。私は充分に実家から仕送りを頂いている。悪いのは私の散財だ。今回は、ショーペンハウアー全集全巻とカントの純粋理性批判のハードカバーをいっぺんに買ってしまった。しかも、それを倹約や節制でカバーしようとも思わなかった。

 「親が払ってくれるだろう」という気持ちだったことは明らかで、そのことを取り繕うことすらしない。

 困ったら大切な本を売って、親に泣きついて、刹那的に、短絡的に、私は死なないでいる。