「好き」と「正しい」の間 ~真剣に「この「物語」には家虎が必要だと思う」と言われたらどうしよう~

「好き」と「正しい」の間

2017年10月19日

 ここに不毛、かつ有害でさえある論争が1つある。
 「二次元オタク系のライブにおいて、コールはいったいどれだけ許されるのか」という論争だ。
 「ライブは自分が楽しむために行くものだ、コールはどれだけやってもよい」という、いわゆる「厄介」を1つの端に置けば、反対側には、「演者を見ろ、コールはやめろ」という、いわゆる「警察」がいる。

 一般的なオタクは、このいずれもを「理解できない奴」と切り捨てて、例えばこのように言う。
 「うーん、まあfufufuwafuwaとかハイハイとかくらいならいいと思うんだけど、ただし家虎、テメーはダメだ。スネークやmixもヤメロ」

 この言い分は一見「中道」であるようでいて、だが、実際はそうではない。
 なぜ①ハイハイはよくて家虎は駄目なのか?
単なる「コール」と「厄介」な「オタ芸」の境界線はどこにあるのか?
 こう問えば、おそらく上のように言った人はぽかんとするだろう。
 「いや、家虎はみんな嫌でしょ、常識じゃん」
 「常識から外れている」という理由で他人をたたくのは容易い。ただ、「常識」は形があるものではなく、全くふわふわしたものだ。
 「演者の声が聞こえない」
 では、ハイハイも同じではないか。無言で静聴するのが求められているアクションなのか?
 「無音の音をぶち壊す」
 「無音の音」とは何か?では、「無音の音」に家虎を重ねる楽しみ方は、楽しみ方の1つとは言えないのか?
 「言えないよ、俺たちは、無音の音を無音の音として楽しむために来ているんだから…」
 ここで気がつく。これは結局、1番最初に挙げた「常識」の話である。
 結局、ライブに来るオタクは私を含め、なんとなくの「常識」で動いているに過ぎない。注意文には書かれているが判断の基準は曖昧な(どこからが他人の迷惑になるのか?)、明文化されたわけでもない行為を、「なんとなく」正しい間違いと言っているのだ。

 しかし、私はこの状況はそれほど間違っているとは思わない。もちろん、「ハイハイはいいけど家虎は許されないだろ」と断罪する人間が、その断罪の理由は非常に恣意的であると知ることは重要だと思うけど、それでも「ハイハイはいいけど、家虎はちょっとなあ…」くらいに言うのはいいと思うのだ。

  去年の12月、fripSideの八木沼さんが、自身のTwitterで家虎への不快感を露わにした。八木沼さんは、fripSideの曲には、家虎が合わないと考えており、fripSideのファンもそう考えている。また、ファンの「家虎を入れてもいい曲を作るより、八木沼さんが作りたい曲を作ってほしい」というリプライに対して、同意を示している。
 つまり、八木沼さんは、どのような楽しまれ方をしてもいい曲を作りたいのではなく、多少の許容はするものの、自分がしてほしい楽しみ方をしてくれる人に向かって曲を作るのであり、曲を聴き、ライブに行く人はそれを承知の上で――むしろ積極的にそれを良いと考えているのだ。

  やや批判的な言葉を使い過ぎたかもしれない。このように言い換えよう。
 「fripSideのファンは、八木沼さんの「物語」を楽しむのだ」――と。
 小説でもなんでもそうだが、解釈者の身勝手な「こじつけ」は嫌悪される。あらゆる可能性を考慮する「研究」するならともかく(言うまでもなく、その場合も敬意は必要だ)、「物語」が好きな人が集まる場所において、ある程度「作者」の思想は尊重されてしかるべきだと思う。
近年、オタク系のライブは山のようにある。小さなものから大きなものまで様々だが、増えてしまったために、ライブを「物語」の延長線上として捉え、参加するのではなく、オタ芸を入れられる現場としてのみ捉え、参加する人もたまにいる。
オタ芸そのものを否定するつもりはない。程度によってはライブで行われても許容した方がいいと思うし、「物語」をぶち壊しかねないほどのものなら、「「物語」を破壊する」という「物語」がある現場に行けばよい。

 


ここまでライブの話をしてきて何が言いたかったのかというと、要するに、「物語」を愛することがいかに重要かということだ。ライブの話はここでは単なる具体例でしかない。自分を愛するだけでなく、「物語」をいかに愛しているか。それを問うことがライブを軸に据えたオタクコンテンツでは大切だ。

ここに、私が好きだと思っている1つの「物語」がある。それは複雑で入り組んでいる「物語」だが、あえて名前を与えれば「Tokyo 7thシスターズ」、「ナナシス」だ。
私は、たぶんナナシスが好きだ。好きなんだと思う。だが、最近色々自分のナナシスへの愛を試してみたところ、どうも結果が優れない。私は本当に好きなのか、不安になってきた。だから知りたい。私は本当にナナシスが好きなのか?

だが、問うこと自体、それは好きではなく好きでありたいだけだとする見方もある。「問う」ことは「答え」を見つけるためのものだと思う。「答え」は「正しい」。でも、「正しさ」は「好き」に変わりうるのか?明晰に「私はこれこれこういう理由でこれが好きだ」と語ることができることができれば、それが「好き」なのか?
でもその一方で、「正しさ」で漠然とした「好き」を腑分けしていくことも重要だと思う。私は何か別のものが「好き」だと勘違いしているのではないか…?しかし、それを追究する意味があるのかということも言えよう。これには簡単に答えられる。追究せざるを得ないのだ。蒙昧な「常識」にあぐらをかくつもりはない。性分といってもいい。問うことはおそらく「好き」なのだ。

ナナシスに対する「好き」と「正しさ」と、その間を問いたい。そこになにがあるのかないのか。これが私が――アメブロも作っているのにわざわざ2つ目の――ブログを開設した理由である。
広義の意味で「ナナシスについてのブログ」と言えるだろうが、もしかしたら誰かにとっては不快かもしれない。その意味はそれでまた考えよう。とりあえず、平坦な道のりではなさそうだ。