ブルデュー左派とブルデュー右派?

ブルデュー左派とブルデュー右派?

 少し前、「デューイは文章があまりに難しいわりに人口に膾炙しすぎたため、同じ文章を読んでもそれを保守的に解釈する人もいるし、革新的に解釈する人もいる」と先生が話されたときに、「ところで客の君、ブルデューにはそういうところはないの?」と話を振られました。
 その時はびっくりして(私は人と話すのがあまり得意ではありません)、また不勉強もあって「うーん、どうでしょう…」くらいしか言えなかったのですが、それからしばらく考えてみると、これなんじゃないかなあと思うところが少しあったので、今回はそれを少し書いてみようと思います。
「同じことを言っているのに受け取り方が全く違う」というのはそれ自体が非常に面白い現象ですが、しかしながら、デューイについてそうであるように、その多くは単なる読み手の誤解に過ぎないことも少なくありません。今回はそういう「安直な」読みをいくつか紹介・検討して、それに今後陥らないようにしようと気を付けるきっかけにすることを目的にしたいと思います。

A. ブルデュー左派?
最初にはっきり言ってしまえば、ブルデューは左翼です。穏当な言い方をすれば、いわゆる「進歩的知識人」です。これは彼自身認めているといっていい気がします。それに、例えば「文化資本」という言葉には、「支配階級が自分たちの文化(ハイカルチャー)を労働者階級に押し付けようとしており、またその事実を隠蔽している」というイメージが(これ以上なくざっくりとですが)あります。少なくとも、支配階級はそれを無自覚に利用していると。ブルデューはそれを暴いたのだというイメージがあります。特に教育社会学の分野ではそう捉えられることが多いです。
ある意味それは間違いではないでしょう。ただ、それでは不十分な部分もあります。
少しゆっくりと考えてみましょう。「文化資本」があることは何が問題なのでしょうか。批判点は主に2つです。1つ目が、文化を利用することそれ自体への批判。2つ目が、それを隠蔽することへの批判。このうち、後者がよくないことは簡単にわかります。「こういうことが起こっている!支配階級はそれを知らない、認めない!」と。
ただ、ではそれをどのように解決するかということを考えると、結局は1つ目の点に戻ります。つまり、「こんなことが起こっていると初めて知りました。ごめんなさい。この事実を十分に認識して、これが起こらないように常に注意します。」と人が言う時、このような言明それ自体は非常に理想的ですが、制度に落とし込もうとすると、凡庸なやり方にしかならならないということです。
「文化は多様で、良い悪いはないので、ちゃんと尊重しましょう」…もう何度、何年見たか分からないような文章ですね。それくらい大事だということであり、これが不要だというつもりは毛頭ありません(むしろ全ての根幹です)が、はっきり言うとインパクトは弱いですね。
では、1つ目に戻り、文化資本が働かないようにしてしまいましょう。現在の日本に文化資本による格差があるかという議論は、賛成反対含めて山のようにあるのでここでは仮に「日本の古典」が文化資本化しているという仮定で想定してみます。
平家物語』『枕草子』『徒然草』『源氏物語』…これら日本の古典は文化資本による格差を引き起こす原因です。「良い趣味」の家庭ではこういう本を読みますが、労働者の家庭は読みません。彼らが読むのは大衆誌だから、不公平です。やめましょう。
…では代わりは?日本の古典を読まない代わりに、何を学べばいいのでしょう?
ここで「大衆誌(言うまでもないですが大衆誌はあくまで比喩です)を学ぼう」となったらどうでしょうか?まず考えられるのは専門家たちの反発ですが、それが無いとすると、そして知識の「学校化」もないとすると、「身の回の生活や仕事で役立つ知識を教えよう」ということになります。これは美しい響きの言葉で、実際そういう主張がされることは過去に幾度となくありましたし、今もあります。私がここで主に想起するのは、リチャード・ホフスタッターが『アメリカの反知性主義』で分析したような教育です。ただ、そうすると問題として指摘したいのが、そういう教育を受けた人はどのようにして「身を立てて」いくのだろうかということです。つまり、知識が身の回りのものにとどまる限り、どうやって他業種に――例えば高度な専門職――に就くきっかけが与えられるのでしょうか。「じゃあ、みんながそれぞれの立場の知識のみで平等に生活できるように、職業の貧富の差をゼロにしよう」という意見が、2020年になろうとする今日この頃にどれほど説得力があるのかはよく分かりません。
何を言いたかったかと言うと、「教材となる「文化」を選ぶ」ことそれ自体が、すなわちそこで目的とされる「報酬」を定める行為であり、「ゲーム」の場を創り出すことであるということ、そして「文化を選ばない」という立場を取った時、それは階層移動の場としての学校制度という仕組みの放棄、つまりアナーキズムの立場を取ることになるということです。そしてそのいずれもが、説得的な解決案とは言い難いです。では、やはり人は「多様な価値観に目を配り…」という、例の理想論を繰り返しながら、地道に1つずつ修正していくしかないのでしょうか。ブルデューならそう言うでしょう。ただ、そういう玉虫色の結論では満足できない人もいて、彼らが何を言うかと言うと「学校独自の文化」です。実証系の人がたまにいうのは、「ブルデューが主に調査したフランスとは違い、日本の試験は極めて「学校」的であり、それは階層による文化の不平等を反映しない(経済の不平等はここではおいておきます。「経済格差もそれほど反映していない、いわんや文化格差をや」という立場の人もいます)」ということです。日本のセンター試験機械的でテクニックがあれば誰でも合格ラインに乗れるなんてことも言われたりしましたが、逆に言うとそういう利点もあるわけですね。
ただ、この意見をよく見ると、これは要するに現行の試験(そして学校制度)を容認(もしくは支持)する、保守的な意見ですね。「人間本来の教育を!」と叫ぶ人たちとはなかなか相容れないでしょう。

これまで見てきたように、左派的な読みでは、ブルデューを引用して「文化資本をなくせ!文化資本は悪だ!」と繰り返すだけでは、なかなか有効な助けにはなりません。「文化資本」がどのように働くかを見極め、こつこつとやっていくしかないわけです。それがブルデューの立場です。ちなみに、時々、それがじれったい人が「ブルデューは不平等を暴露するばかりで、実践に有効な手段を教えてはくれない」といちゃもんをつけたりするのですが、これはあたらないと思います。ブルデューは、確かに直接的な手段を提供してくれるわけでは必ずしもありませんが、助けとなるアイデアを提供してくれます。この辺りについてはまた後で書きます。

B. ブルデュー右派?
さて、ハビトゥスという概念をご存知でしょうか。「身体化された構造」くらいでとるのが適切(ハビトゥス=身体化された文化資本 ではありません。念のため)だと思いますが、要するに、人が成長する過程で、育つ環境で支配的なものの考え方や身振り手振り、話し方や作法などが身についた状態のことです(たぶん)。よく「ハビトゥス」というと家庭環境ばかりが強調されるのですが、少し考えればわかるように、別に文化に触れるという状況は家庭のみで行われることではないので(大人になってからでも海外に行って現地に染まるということはあります)、当然学校教育で培われるハビトゥスもあります。『再生産』では、例えば前者のようなハビトゥスを「第一次ハビトゥス」、後者のようなハビトゥスを「第二次ハビトゥス」などと呼んだりします。
ただ、家庭で、人生で1番初めに形成されるハビトゥスが全ての基本となるので、家庭で形成されるハビトゥスを最重要視することそれ自体は間違っていません。不適切なのは、これを唯一で不可逆的なものであると考えてしまうことです。
 もし仮にハビトゥスが1度形成されてしまうと元に戻らないものだとすれば、つまり家庭で形成された価値観が学校では一切変わらないとすれば、どうでしょうか。全てが家庭で決まるということは、それは学校という制度の否定になります。もちろんそんな極端なことをブルデューは言いません。しかし、繰り返しになりますが、かなり規定力を強調してはいるのです(でないとハビトゥス論なんてものは出てこないでしょう)。ここが非常に微妙なところです。ブルデューは社会構造の規定力をかなり重要視していて、それにも関わらず、それを打ち破っていくことを「期待」しているのです。
あえて誤解を恐れずに言えば、ブルデューを理解するという意味では、彼自身が左翼と言っているにもかかわらず、議論の内容は保守的だという方が適切なのです(たぶん)。ブルデュー理解は、このギャップを理解するところから始まると言えるでしょう。
構造の規定力の強さは、文化の問題にも関わります。実は私は、前項で「ハイカルチャー」と「大衆文化(サブカルチャー)」に貴賤があるような書き方をあえてしなかったのですが、一般的には、前者は後者に優先すると考えられています。私個人としては、Fateは文学でありAIRは芸術でありCLANNADは人生であることを認めるのにやぶさかではないのですが、全体的な傾向として、そう考えられる傾向にあります。理由はいくつか考えられます。①ハイカルチャーは1000年以上の歴史を持つ。歴史の壁は厚い②ハイカルチャーでは極めて高度な批評眼を持つ受け手が想定されている③制度的に優遇されている④商業的利益を必ずしも目的としていない…など、あげればキリがありませんし、ある程度妥当性があるものもあります。とはいえ、その中にはハイカルチャーの担い手(つまり支配階級)が自らを正当化するために「悪用」したものもあるのでしょうし、実際ブルデューの主な仕事として考えられているものの1つにその指摘(暴露)があることは周知の通りです。
ですが、文化そのものに優劣は無いとあなたは言い切れるでしょうか。『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』と『5分後に意外な結末』は同価値だと、シャガールとぽんかん⑧は同じくらい偉大だと(私はぽんかん⑧先生の方が好きです)言い切れるでしょうか(そもそもジャンルが違うという話ではなく)。
ブルデューはそこには触れていません。彼が問題にしているのはあくまで文化を人々がどう「利用」するかであって、文化そのものの価値がどうかは問われません。しかし、そこに文化の価値の高低を見出すと、容易にそれは優生思想めいたものに陥ります。つまり、「家庭で形成されたハビトゥスが絶対なのであれば、文化資本が働く現状こそ適切な人材を救い上げることができているといえるのではないか」と。
テオドール・アドルノの教養論は、義務教育で子どもが商業文化に曝されるようになってしまったことで教養が没落したというような近代批判をしていたかと思いますが(アドルノ自身は教養のおばけです。そして議論はもっと丁寧なのですが、ここでは単純化しています)、ブルデューの第一次ハビトゥスの重要性を強調しすぎると、その類の結論になっていくのは予想できるでしょう。全ての子どもに同じ文化的環境を用意することなどできませんし、緊急時を除いてはするべきでもないと私は思います。しかしそれによって、学校では救えないような致命的な不平等をもたらしてしまう…これがブルデューを保守的に読むことの末路です。

C. 適切な読みをめざして
私たちは、この結論を受け入れるところから始めなくてはなりません。つまり、左派的にブルデューを読むと玉虫色の解決案しか出てこず、右派的に読むとそもそもあまり救いがなく、学校に来る前の幼い時期にほとんどが終わってしまっているという結論を。
そして適切に「事実」を受け入れたうえで、そこから少数者を引き上げる――もしくは自分が這い上がる――努力をしていかなければならないのです。そのために必要なのが、「無意識」に気づくことなのです。
ハビトゥスが厄介なのが、身体化されているがゆえに「無意識」であるという点です。人は、全く意識せずに特定の振る舞いをするのです。それは本人にとって自明のことであるから、もし仮にそれを疑うような指摘がされても、相手が何を言っているのかが理解できません。正統的な文化とみなされていれば、そもそも問われないことだってあるでしょう。それに疑いの目を向けるというのはそう簡単ではありません。ブルデューが自らの社会学のテーマとして「反省」を掲げたのは、この難しさに挑戦しようとしたからです。すなわち、圧倒的な規定力をもつ社会構造=無意識をまずしっかりと捉え、そこから脱することが重要だと考えたのです。ここで「重要」というのは、本稿で主題とした「政治」のみに限らず、社会科学としての方法論、さらには哲学(思想?)上の立場など、全てを貫いて言えるという意味です。ブルデューには、「事実」から目をそらさず(もちろんそれに批判的検討を加えることは必要ですが、それはあくまでより適切な「事実」をめざすものです)、自分の立場を常に振り返ることこそが、規定から脱する道だと考えていました。そのどっちつかずの立場こそが、ブルデューを適切に読むということではないでしょうか。

なんだか前回の記事と似た結末になりましたが、今回はより具体的なテーマでそれを考えてみることができたのではないかと思います。ただ、結局、ブルデューの言ったことはそういう(ある意味)平凡な研究者倫理だったのかと問われると、違うと返すことはできるのですが、具体的に彼の認識論を(入門書に載っていること以上のレベルで)説明することができません。『社会学者のメチエ』をちゃんと読まねば…